「1点差ゲームで33勝」接戦をものにする強さ
「1961年の巨人は長嶋茂雄が首位打者とホームラン王、1987年の西武は秋山幸二がホームラン王に輝き、両チームとも本塁打数はリーグ1位でした。1982年の西武は田淵幸一とテリーが25本ずつ打っているし、スティーブという3割打者もいました。しかし、2011年の中日は3割打者もいなければ、20本塁打以上打った打者もいなかった。それで優勝したのは1962年の阪神以来、2リーグ制では2度目でした。
ただ、その1962年は投高打低でセ・リーグに3割打者が1人しかいなかったですし、阪神からは打撃ベストテンの3位に2割9分で並木輝男、10位に2割6分1厘で吉田義男が入っています。2011年のセ・リーグには3割打者が4人いましたが、中日のチーム最高打率は荒木雅博の2割6分3厘(個人打撃成績15位)でした。歴代の優勝チームの中で、“最も打てなかったチーム”と言っていいと思います」
2011年、中日は吉見一起、ネルソン、チェンなどの先発陣、浅尾拓也、岩瀬仁紀などのリリーフ陣が踏ん張り、リーグ1位の防御率2.46をマーク。1対0で10勝するなど全75勝のうち1点差で33勝を挙げた。1点差で33勝以上のセ・リーグのチームは天知俊一監督の1954年中日(33勝)、三原脩監督の1960年大洋(34勝)、星野仙一監督の1988年の中日(34勝)に次いで4度目だった。いずれも、リーグ制覇を果たしている。
「2011年の中日の2桁勝利は吉見、ネルソンの2人だけ。他の先発陣は安定していなかった。浅尾、岩瀬という鉄壁のリリーフがいたから接戦をモノにできたし、徹底した先行逃げ切りパターンでした。また、打者では1か月に1人、好調な選手が必ずいた。谷繁元信はシーズン2割5分6厘でしたが、4月、8月、9月には3割を打っていた。優勝争いが佳境に入った9月には5番を任せられる機会も増え、10試合連続打点と打つ方でも貢献しました。森野将彦はシーズン2割3分2厘でしたが、7月だけは3割4分4厘を打っています」
同年の中日は両リーグ最低のチーム打率だったにもかかわらず、5月の平田良介、6月の森野、10月のブランコと野手部門の月間MVPを3人も輩出した。打率1割台の月が3度もあった和田一浩も終盤の10月だけは3割1分4厘をマークし、12日のヤクルトとの天王山では試合を決める3ランを放ってマジックを点灯させた。荒木雅博も他の月は2割台前半なのに、5月4割近く、9月3割を超えている。
「調子の悪い年はだいたい1年通して打てないものですが、この年の中日は不調の選手でも1か月だけは絶好調になる不思議なチームでした。今年、新庄ビッグボスは支配下選手を全員使うと言っています。若い選手はいっとき好調になっても、研究されて打てなくなるというケースがよくある。それならば、1か月絶好調の選手を7人作るという発想をするかもしれません。