また乃木が四国に置かれた第十一師団の師団長だったとき、官舎が整っておらず近隣の金倉寺(四国88ヶ所霊場、第76番札所。香川県善通寺市にある)を宿舎としていたが、そこにある年の大晦日、東京から静子夫人が面会にきた。どうやら子供のことで重大な相談があったらしいのだが、乃木はそのようなことで「戦場」に来るなと、雪のなか静子夫人を追い返してしまった。ちなみに、いまでもこの寺の境内には「乃木将軍妻返しの松」がある。
じつは乃木はドイツ留学までは毎日のように料亭に出入りして豪遊し泥酔していた。おそらくは心の重荷を紛らわせるためだろうが、ドイツから帰ってきた後は生活態度が一変した。まさに「妻返しの松」に象徴されるような謹厳実直な軍人になった。そして、寝るときも軍服を脱がないという「乃木式」を始めたのも帰国後である。妻としてはこの極端な変化もたまったものではなかっただろう。また姑の壽子も静子には決して優しく無く、儒教的な親孝行にこだわる乃木は姑から妻をかばおうという気持ちは微塵も無かった。たまりかねた静子は、幼い二児を連れて別居に踏み切ったこともあるくらいだ。
話を殉死の評価に戻そう。明治を代表する小説家徳冨健次郎(蘆花)は、この殉死の記事を読んだときの反応を次のように述べている。
〈余は息を飲んで、眼を数行の記事に走らした。
「尤だ、無理は無い、尤だ」
斯く呟きつゝ、余は新聞を顔に打掩うた。〉
(『みみずのたはこと』岩波書店刊)
これについて福田和也は、冒頭に紹介した著書で「明治という時代の、広さを感じざるをえない」と感嘆している。なぜなら、蘇峰こそ当時明治天皇の最大の批判者の一人だったからである。
(文中敬称略。第1339回につづく)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/1954年、愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代に独自の世界を拓く。1980年に『猿丸幻視行』で江戸川乱歩賞を受賞。『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』など著書多数。
※週刊ポスト2022年4月29日号