●馬場淳氏(和光大学教授・文化人類学者)
今やマンガやアニメと同様にサブカルチャーの地位を得た日本のAVは1980年代に登場し、1990年代に入ると企画モノやドキュメンタリー系など、ジャンルが一気に多様化した。なかにはカラミがほとんどない作品まで作られ、そこには「撮りたいものを撮る」という監督の気概や哲学が大きく作用していました。
実験的で多様なAVに映る男優の姿を見て、思春期の若者が自分の欲望や「男らしさ」「正常/異常」について気づきを得ることも多かったと思います。女優が肉体的・精神的に追い込まれる作品を見て、「僕はこの男優のようなことはやらない」とか。自分を発見するためには他者が必要で、AVは自分と向き合う装置の一端を担っていたといえます。
文化人類学の観点からすれば、良いか悪いかは別にして、AVは人類の性行動を広げ、新たな可能性を開拓してきました。人類史的には、バック(後背位)は時間をかけて楽しむものではなく、限られた空間でササッと“済ませる”もので、動物の体位とみなされることもあったのです。AVは第三者からの視覚的な興奮を誘うために自然とはいえない多様な体位を生み、新しい娯楽を開発したといえます。
一方で、2010年代に入ると未成年のAV強制出演問題が浮上した。被害者救済という大きなうねりのなかで、今回のAV新法に繋がっている。
AV新法は画期的ですが、その影響は大きいかもしれません。女優の権利を守ることは当然ですが、今回の規制内容だと意外性や予測不可能性をウリにするドキュメンタリー的な作品も撮りづらくなるのではないでしょうか。
また予定調和のなかでリアリティを追求すると、女優に求められるハードルも上がるかもしれません。俳優並みの演技力が必要になり、今までのような素人が演じられるものではなくなるからです。今後のAVでは、「他者を見て自分を知る」ような刺激や発見を得ることは難しくなるでしょう。
●平野勝之氏(映画監督)
中学生の頃から漫画ばかり描いていました。表現するのが好きで、18歳からは自主制作映画を撮影していましたが、「将来は自分の作品でメシを食う」というイメージはずっとあった。25歳の時に上京し、友人に誘われたのがAV制作会社でした。AVには思い入れも抵抗感もなかったのですが、映像関係の仕事ならカラオケ用ビデオでも何でもいいと。
当時の業界は、良くも悪くもグレーでゆるかった。作品はタイトルありきのパッケージ勝負。プロデューサーは中身を見ないから、それを利用して映像で好き勝手に遊ぶことができました。こう言うと不謹慎に感じるかもしれませんが、見る人にトラウマというか、「これはやばいものを見た」と思うような、人格形成の一部分に加担する作品を作りたかったんですよ。それを自由にできる「ゆとり」があったのが、そのAV制作会社だった。
アブノーマルな映像を数多く撮影しましたが、僕にとってはアクション映画を撮っているような感覚だった。自分の作品を見たという若者が「見たことのない映像で影響を受けた」と話しかけてくれるのは嬉しかったし、青春の通過点を切り取ったような、ある程度の手応えを感じられたことは幸せでした。
でも、そもそもの前提として、やっぱりAVってまともとは言えないものを撮っているんですよ。アウトローであるべき業界が、作品数も女優さんの数も増えて、メジャーになり過ぎてしまった。もちろん出演強要問題はメーカーや事務所が責任を持って対処する必要がありますが、格式ばって法律を決めるような業界じゃないと思うんです。
「何者かになりたい」と思ってAV業界に入ろうとする女の子には、はっきりと「何者かになんてなれないよ」と言いたい。そういう意味では業界は大きくなり過ぎたのかもしれないし、新法成立による法整備というのはそもそもおかしな話で、疑問を感じますね。