実際この啄木の『’V NAROD’ SERIES A LETTER FROM PRISON』も当時公刊されることは無く、公開されたのは戦後のことだ。それでも、啄木が生きていれば地下出版などの手段でこの文章を公開する手があったかもしれない。そうすればその後の日本の言論環境も変化し、国家の方向性も少しは修正されたかもしれない。その意味で啄木が二十六歳で夭折したことは、単に日本歌壇だけで無く、日本言論界の惜しみても余りある損失だった。
さて、あらためて、この「三年間」の年表を見ていただきたい。この時期は、前年の明治四十二年(1909)十月に伊藤博文がハルビン駅頭で安重根に暗殺された結果、武断的な韓国併合に拍車がかかっていた時代でもある。『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編 日露戦争と日比谷焼打の謎』で述べた、佐久間艇長の事件、昭和天皇も懐かしい思い出として記憶していたハレー彗星の接近、孫文の盟友梅屋庄吉のところで述べた大隈重信が後援した白瀬矗中尉の南極探検隊の出発、平塚らいてう(雷鳥)が雑誌『青鞜』を創刊したのも、この時期だ。
また、日露戦争の折に講和のタイミングを誤りそうになり参謀長児玉源太郎に怒鳴られた参謀次長長岡外史は、この時期新潟周辺を管轄とする第十三師団の師団長だったが、交換将校として来日していたオーストリア=ハンガリー帝国陸軍のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐に依頼してスキー技術を伝授してもらっている。初めての指導は明治四十四年(1911)一月十二日に行なわれたので、これを記念しこの日は「スキーの日」になった。ただし、レルヒ少佐の伝えたスキー技術は「一本ストック」によるもので、その後世界では「二本ストック」が主流となったため、そのスタイルは廃れてしまった。
また、この時期の世界史上最大の事件と言えば、やはり孫文による辛亥革命の「成功」だろう。
しかし、あまり目立たないがその後の日本の思想の方向性を決めた大問題もこの時期に生じている。南北朝正閏問題という。室町の昔に対立併存していた南朝と北朝のどちらが正統な天皇家であるか、という問題だ。
じつは、この大問題が起こったのは「大逆事件」での幸徳秋水の「発言」がきっかけなのである。
(第1347回につづく)
※週刊ポスト2022年7月8・15日号