検閲を意識したロシア語表記

 啄木は、「大逆事件」の被告の弁護人を務めた平出修とは友人であった。歌壇の先輩与謝野鉄幹(本名寛。与謝野晶子の夫)が雑誌『明星』を創刊するとき、弁護士資格も持っていた平出は同人として名を連ね、啄木も協力者の一人だったので、このときから二人は親交を結んでいた。その鉄幹が、平出を幸徳ら被告の弁護人に推薦したのである。裁判の状況はすべて非公開だったが、啄木は平出に裁判のすべてを聞き、幸徳の陳弁書にこれは幸徳に関しては当局のでっち上げによる冤罪だと結論づけた文章を書いている。『’V NAROD’ SERIES A LETTER FROM PRISON』である。

 前半の「V NAROD(ブ・ナロード)」はロシア語で、「1870年代の帝政ロシアで起った社会活動家、学生、インテリゲンチアによる農民社会主義運動のスローガン。ナロードニキと呼ばれる当時の革命家たちは、人民(農民)のなかに革命的行動を組織しようと、すすんで農村に入り、社会主義の宣伝や革命の必要を説く活動を行なっていった。このときの合言葉が、「ブ・ナロード(人民のなかへ)!」(『ブリタニカ国際大百科事典』小項目事典より一部抜粋)なのだが、あとは英語だから訳すまでもあるまい。

 わざわざ外国語、それも冒頭の部分をロシア語にしたのは、検閲を意識してのことかもしれない。この文章は長文なので全文の引用などとてもできないが、それでも幸徳が自分の言葉で大日本帝国の不当を訴えた部分の一部を紹介しよう。

〈無政府主義者は決して暴力を好む者でなく、無政府主義の傳道は暴力の傳道ではありません。歐米でも同主義に對しては甚だしき誤解を抱いてゐます。或は知つて故らに曲解し、讒誣、中傷してゐますが、併し日本や露國のやうに亂暴な迫害を加へ、同主義者の自由、權利を總て?奪、蹂躙して、其生活の自由まで奪ふやうなことはまだありません。歐洲の各文明國では無政府主義の新聞、雜誌は自由に發行され、其集會は自由に催されてゐます。佛國などには同主義の週刊新聞が七八種もあり、英國の如き君主國、日本の同盟國でも、英文や露文や猶太語のが發行されてゐます。そしてクロポトキンは倫敦にゐて自由に其著述を公にし、現に昨年出した「露國の慘状」の一書は、英國議會の「露國事件調査委員會」から出版いたしました。私の譯した「麺麭の略取」の如きも、佛語の原書で、英、獨、露、伊、西等の諸國語に飜譯され、世界的名著として重んぜられてゐるので、之を亂暴に禁止したのは、文明國中日本と露國のみなのです。〉
(『啄木全集 第十巻』石川啄木著 岩波書店刊)

 クロポトキンとは、言うまでも無くアナキズム(無政府主義)の思想家ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン(1842~1921)のことで、文中にもある『麺麭(パン)の略取』の著者としても有名だが幸徳がとくに強調しているのは、たとえ無政府主義に対する誤解や曲解がある欧米社会でも、意見の表明については完全な自由が保障されているということである。

 そして啄木は、この裁判自体の評価を次のように述べている。

〈幸徳はこれらの企畫(=菅野スガらの爆弾テロ未遂。引用者註)を早くから知つてゐたけれど、嘗て一度も贊成の意を表したことなく、指揮したことなく、ただ放任して置いた。これ蓋し彼の地位として當然の事であつた。さうして幸徳及他の被告(有期懲役に處せられたる新田融新村善兵衞の二人及奧宮健之を除く)の罪案は(中略)嚴正の裁判では無論無罪になるべき性質のものであつたに拘らず、政府及びその命を受けたる裁判官は、極力以上相聯絡なき三箇の罪案を打つて一丸となし、以て國内に於ける無政府主義を一擧に撲滅するの機會を作らんと努力し、しかして遂に無法にもそれに成功したのである。〉
(引用前掲書)

 ここが蘆花徳冨健次郎との大きな違いで、蘆花は詳細な情報を知りうる立場にいなかったので、『謀叛論』では幸徳は冤罪の可能性が高いと推測するにとどめているが、啄木は冤罪だと断じている。現代なら、この両者の間にSNSなどを介した情報共有関係が成立し、暗黒裁判の実態が白日の下に晒され政府に対する批判が展開されただろうが、この時代はこうした情報を公刊すること自体不可能だった。厳しい検閲とそれに伴う法外とも言える罰金が、自由な言論を封じていたのである。

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