面会を申請すると、わざわざロビーまで車椅子で出てきてくれたが、本誌記者が照ノ富士の快進撃についてコメントを求めると、一言だけこう答えた。
「オレは照ノ富士のことは関係ないから」
それ以上、取材には応じることはなかった。たった一言だけだったが、それでもきちんと対応した背景には、照ノ富士の入門当時、間垣部屋が“緊急事態”にあったことが関係していそうだ。若手親方が語る。
「間垣親方は2007年に倒れ、一命を取り留めたが車椅子の生活となった。さらに部屋の関取だった若ノ鵬が2008年8月に大麻問題で解雇され、協会の理事を辞任している。入門する力士はおらず、部屋の運営も困難になっていた。弟子も照ノ富士以外に三段目の力士が2人いるだけで、満足に稽古もできない状況だった。ちゃんこ代にも窮して、お客さんがいない時は鍋料理が出なかったと聞きます。ちゃんこをご馳走になるために出稽古をしたというが、照ノ富士は恵まれた体格と素質がありながら幕下で低迷していた。
その後、部屋を閉じて伊勢ヶ濱部屋に移籍後、照ノ富士は頭角を現わしていった。横綱・日馬富士はじめ、安美錦、宝富士、誉富士ら様々なタイプの関取がいる部屋だけに、稽古量が増えて実力もつけられるようになった。移籍から3場所目に十両に昇進。新しい師匠(元横綱・旭富士)の現役時代にちなんだ『照ノ富士』に四股名を改めると、いきなり十両優勝を果たしています。“同郷の先輩”が部屋にいて、それまで一線を画していたモンゴル力士グループとの交流に巻き込まれた面はあるが、その後も2年足らずで三役となり、大関に昇進。間垣部屋閉鎖によって飛躍を遂げた恰好なのです」
“俺が照ノ富士を育てた”などといった作り事を口にしなかった二代目若乃花。その心中には、申し訳ないという気持ちもあったのかもしれない。