当時から倍賞は姉の千恵子(81才)と共に女優として人気を博していたが、豪放磊落で、自称“よく食べる女プロレスラー”。周りの雰囲気を明るくする倍賞の魅力に猪木さんは惹かれていった。
「1971年11月に東京・京王プラザホテルで約1億円をかけた結婚式を挙げました。婚約指輪は1500万円のキャッツアイ。高さ5mのウエディングケーキや豪華な引き出物も話題になりました」(プロレス関係者)
いまの金額に換算すれば5億円近いド派手婚だったが、新婚夫婦はすぐに試練に直面する。きっかけは猪木さんが当時所属していた日本プロレスを追われたことだった。式の費用は日本プロレスが負担することになっていたが、追放で“自腹”に。さらに、新日本プロレスを旗揚げするために莫大な借金を抱えた猪木さんに、倍賞はこう語りかけたという。
「馬鹿ねえアンタ。お金もらってから辞めればよかったのに。でも、心配しなさんな。あなたひとりくらい私が食べさせてあげる」
倍賞は女優を休業して猪木さんの仕事を手伝い、宣伝カーのナレーションの吹き込みや、試合のブッキングにも尽力した。猪木さんは自伝『猪木力 不滅の闘魂』(河出書房新社)で、当時の倍賞についてこう書いている。
《厳しい時代だったけど、救われたのが彼女の明るさでね。例えば、会社の宴会なんかがあると、その場をひとつにまとめて盛り上げる能力なんかは凄かった。あの輝きは、俺を何度も助けてくれた》
1976年、猪木さんは世界をあっと言わせる大勝負に出る。プロボクシング統一世界ヘビー級王者モハメド・アリとの「異種格闘技戦」をぶち上げたのだ。米ニューヨークで行われた調印式には倍賞も同行し、猪木さんの袴の着付けも行った。
「会見のとき、アリが会場にいた倍賞さんをめざとく見つけましてね。『あの人は誰だ』と聞くから『ミセス猪木だ』と答えると、信じられないという顔をするんです。アリは『あんなきれいな人が猪木のワイフなのか?』と驚いていましたが、それくらい魅力的な女性でしたから」(前出・新間さん)
一人娘をもうけ、公私ともに充実していた夫婦の関係に亀裂が生じはじめたのは1985年。資金集めに奔走する猪木さんは家庭を顧みなくなり、ブラジルの事業にものめり込んだ。
「どうしても今夜は家にいてほしい。そうでなきゃ私たちはダメになる」
そう訴える妻の言葉に反して、猪木さんは家を空けがちになった。倍賞が映画で共演した萩原健一さん(享年68)との不倫疑惑を報じられたのは1985年。翌年、猪木さんも六本木のクラブママとの密会をすっぱ抜かれ、1988年に離婚が成立した。当時、倍賞と萩原さんは共に不倫を否定したが、離婚成立後に堂々と交際宣言。猪木さんは『週刊ポスト』(1989年6月16日号)のインタビューで複雑な胸中を明かした。