2018平昌冬季五輪、フィギュアスケート男子セレモニーで、笑顔で並ぶ優勝した羽生結弦(中央)。左は2位の宇野昌磨、右は3位のハビエル・フェルナンデス(スペイン)(時事通信フォト)
スポーツ競技の枠を超えた芸術という「文化」の継承
文学的な話をするなら「記録」だけでは「伝説」とはならない。記録と伝説はイコールではない。「時代の人」=時代の申し子として、その時代を体現して初めて「伝説の人」=レジェンドと呼ばれるようになる。男性バレエダンサーなら自身の跳躍と振付で20世紀バレエの幕開けを告げたヴァーツラフ・ニジンスキーや、1961年にソ連から亡命して欧州バレエの世界に大きな影響を及ぼしたルドルフ・ヌレエフだろうか。この二人は「時代」の子であった。そして歴史上の「伝説」でもある。
後述する内容のためにあえてバレエ芸術に例えたが、いまや羽生結弦のスケートは単なるスポーツの枠を超えた芸術となった。
こうした古き良きロシアバレエと同様、ロシアのフィギュアスケートもアレクセイ・ウルマノフ(1994リレハンメル・金)、イリヤ・クーリック(1998長野・金)、アレクセイ・ヤグディン(2002ソルトレイク・金)、そしてエフゲニー・プルシェンコ(2006トリノ・金)がそうであったように、高い芸術性と叙情性が単なる点取り合戦の枠を、ともすればスポーツの枠をも超えてきた。
ちなみに五輪メダリストではなく贔屓目で申し訳ないが、これにロシアのフィギュアスケート選手に限ればアレクサンドル・アブト(2002ソルトレイク代表)も加えたい。芸術性なら彼もまた引けを取らない。とくにアブトのキャメル、本当に美しかった。女子ならマリア・ブッテルスカヤ(1998長野、2002ソルトレイク代表)だろうか。バレエ芸術の極み、叙情性を秘めた美しい演舞、とくに指先が本当に綺麗だった(たかが指先ではない、大変に重要である)。この伝統的な芸術はエリザベータ・トゥクタミシェワ(2015年世界選手権・金)に受け継がれている。トゥクタミシェワの存在そのものが芸術であり、彼女のトリプルアクセルは文学である。
これらフィギュアスケートの美と芸術、技術、すべてがこの日本人青年、羽生結弦に受け継がれた。
「羽生結弦はなぜ凄いのか」
それは世界も認める通り、西欧に誕生したフィギュアスケートというスポーツ競技の枠を超えた芸術を、この羽生結弦という日本人が継承したことにある。
世界最高得点を何度も更新してきた彼にとって、フィギュアスケートはスポーツであり芸術表現である。いや、その芸術表現の深淵もまた自身の中にしかない絶対的な本質=イデアなのだろう。自身との対話こそがあの、4回転半ジャンプ=クワッドアクセルであった。相対ではない、絶対の「芸術」が北京で成し遂げられた。だからこそ、彼は笑顔だった。世界は、時代はその笑顔のメッセージを受け取った。継承者、羽生結弦の存在そのものが芸術となる幕が開いた。それはファンの思いとも重なった。