1997年、大勢の女子中高生たちでにぎわうプリクラ専門店(時事通信フォト)
1990年代半ばに登場し、女子中高生を中心に大ブームとなったプリントシール機、いわゆる「プリクラ」も、かつては単なる「写真シール」だった。ところが、徐々にフォトレタッチ機能を自動的に付加した機種が当たり前となり、2000年頃には、美肌はもちろん、目をぱっちりさせたり、赤ちゃんっぽい風貌にするなど、良い加工ができる機種の前には行列ができることもあった。私もチャレンジしたことがあるが、この世のものとは思えない「子供風のおっさん」とでも言おうか、なんとも不気味な仕上がりの写真が出てきて驚かされたものだ。しかし、一緒にいた若者からは「盛れている」「こっちの方がいい」と言われてしまい、返す言葉が見つからなかった。
冒頭の高校生による記事に戻るが、子供達にとっては確かに「加工写真」は当たり前のものなのかもしれない。そして大人達は、加工写真はダメだ、過度な加工をしないようにと子供達に言えないまま、苦い顔でやり過ごすしかなかった。だが、若者だって、過度な加工がもてはやされる風潮の奇妙さに気がつき始めているころが記事のしめくくりからもうかがえる。
ちなみに、この加工の誘惑に抗えないのは、若者だけではない。中高年男女であっても、加工に加工を重ね、別人のような自撮り写真や動画をSNSに上げまくっている。中高年女性が若者向けのSNSに思い切り加工を施した写真をアップし若返ったような気になる、ということも珍しくない。さらに、中年男性が自撮りを加工アプリによって美女へと変身させSNSに次々と投稿する、等ということも起きている。つまり、写真、とくに自撮りを加工して思い通りに変える誘惑には、年齢も性別も関わりなく弱いのだということが分かる。
写真や動画は、何のために撮影されるものなのか。自分が満足するためのものなのか、人に見せるためだけのものなのか、記録や記憶として、思い出として残しておくためのものなのか。慣れてしまえば加工が当たり前になってしまうのかもしれないが、免許証やパスポートなど、証明用の写真も加工させるべきだと考える人はおそらくいないだろう。この加工写真のことを考えるたび個人的に思い出されるのが、若くして命を落とした私の友人のことだ。近影が画質の粗い携帯(ガラケー)カメラで撮った写真や加工の施されたプリクラしかなく、遺影用写真を探すのに大変苦労したのだ。
程度の差はあれ、加工という行為が、写真が撮られる目的とそぐわないことは他にもあるはずだ。いまや指一本で簡単にできてしまう写真の加工について、一度、立ち止まって考えてみることの大切さを、「元の顔が見れなくなった」と悔いた高校生に教えられたような気になっている。