その妹が私の家に帰ってきたのは、生後8か月くらいの頃でした。薄いピンクの服を着ていて、赤ちゃんなのに襟足の髪がふわっと長かった。いつも父親に髪の毛を真横に短く切られていた私は、そのふんわりとした長めの髪の毛を見て「いいなあ」と思いました。
「今日から一緒に住むんだよ。戻ってきたんだよ」
母からそう聞いたときは、本当に嬉しかったです。養子先の家の事情で、我が家に戻ってくることになったとのことでした。
2階の部屋で妹がハイハイしていて、母やきょうだいが笑顔でそれを見つめている光景は「幸せ」そのものでした。
養子に出すために産んだのか
母はそれからも、私が6歳、7歳のときにふたりの女の子を産みます。そのたびにそれぞれ異なる養母さんが家に来て、同じやり取りが繰り返されました。いちばん下の妹の養母さんは、特に優しかったのを覚えています。
泊まり込みしてくれていたときも、いっぱい遊んでくれました。彼女の髪の毛を私が何度も不器用に結んだりしても怒らず、私の髪を優しく丁寧に結んでくれるのでした。生まれる前後の泊まり込みの時期は、母以上にずうっと私のそばにいてくれました。2週間以上は滞在していたのではないかと思います。
そして、また妹たちは養子としてどこかに行ってしまいました。結局、母は43歳になるまで6人の子どもを産みました。
統一教会では、教義上の何らかの条件を満たすために、当時は30歳頃まで子どもをつくってはいけない期間があったと両親から聞きました。
母は、14人の子どもを産んだ「お母様(韓鶴子総裁)の似姿となるべきなのに、私は6人までしか産めなかった」と言っていました。統一教会が説く人生の目的のひとつには、「神の子」を産んで家庭を完成させる、「子女繁殖」という教えがあります。