小学1年生のときに書いた、地域の児童センターのアンケート。夢は「やきゅうのせんしゅ」とある
直筆手紙に綴った祖父母への思い
大谷少年が育ったのは、奥州市内の静かな住宅地だった。徹さんは、社会人野球の選手として活躍。加代子さんはバドミントン選手として神奈川県の代表に選出されたことがある。1992年のバルセロナ五輪に出場した陣内貴美子(59才)と対戦したこともある有力選手だった。
7才年上の兄は、のちに独立リーグや社会人野球でプレー。2才上の姉も中学高校とバレーボール部に所属しエースアタッカーとしてならした。絵に描いたようなスポーツ一家だった。
大谷が2才の頃、母が参加するママさんバドミントンチームの練習に連れて行かれ、そこで見よう見まねでラケットを振り始めた。加代子さんは、当時のことを『文藝春秋』(2014年11月号)でこう振り返っている。
《主人によると、バドミントンやテニスのラケットの振り方とピッチャーのボールの投げ方は似ているといいます。あのダルビッシュ有投手も、中学時代に平均台の上でラケットのネットに厚紙を貼り付け、シャドーピッチングをしたそうです》
幼少期の大谷が書いた1枚のアンケートと1枚の手紙がある。アンケートは、地域の児童センターに遊びに来た際に記入したものだ。好きなスポーツにはもちろん「やきゅう」。夢にも「やきゅうのせんしゅ」と書いている。その頃から、大谷ははっきりと、将来自分がグラウンドを駆け回り、日本中を熱狂させる姿を思い描いていたのだろう。
一方、もう1枚は、小学2年生のとき、祖父母に宛てて書いた感謝の手紙だ。父方の祖父・正幸さんは幼い大谷のキャッチボールの相手をしていた。高校時代には孫が出場する試合は欠かさず見に行き、プロ入り後、さらにはメジャー移籍後も出場試合は欠かさずテレビ観戦していたという。
「まだ日本球界にいた頃、大谷選手が、両親のために実家を建て替えようとしたことがあったそうです。でも、そのときおじいさんから、“両親も元気で家もまだ古いわけでもないんだから、そんなふうにお金を使うもんじゃない。ちゃんと貯めておきなさい”と叱られたことがあったそうです。
もともと、派手にお金を使ったりするようなことがまったくなく、プロ入り後もお金の管理は母親に任せ、大谷選手は月10万円のお小遣い制だった。おじいさんの言葉はいまでも心に残っているといいます」(大谷家の知人)