しかし広瀬の戦死の状況を思い出していただけばわかるが、軍神というのは苦戦のときに生まれる。苦戦で無ければ、そもそも戦死者などめったに出ない。だが陸軍は「軍神をめざす」組織になってしまった。こういう傾向が続けば陸軍はいったいどういう組織になるか?
戦死者が多数出てもかまわない、よく言えば苦戦を恐れない組織になる。その反面、戦死者は極力抑えるべきだという世界の常識が通用しなくなり、それがゆえに無謀な戦争(戦死者が多く予想されるから避けるべき戦争)を好んでするようになる。しかも自分たちこそ「戦死という究極の形」で最後まで天皇に忠義を尽くす「忠臣」だと考えるから、「そこまで忠義を尽くさない」つまり最初から戦死などしない政治家や外交官の言うことは聞かなくなる。そして、こういうときに批判能力を発揮し国家の行く末を修正するのがマスコミ報道機関の役目であるにもかかわらず、その代表である新聞も雑誌も「戦争を煽れば売れる」ので「軍隊応援団」に回ってしまい、この傾向はますます強化されてしまう。
その一方で陸軍は本来身内であるべき兵站部門は仲間と認めないので、兵站部門には人材が集まらず結果的に補給が行き届かず、死ななくてもいい兵士が餓死するということにもなる。それは本来組織の欠陥として批判され改善されるべきなのだが、兵站部門への蔑視があるうえに「苦戦を尊ぶ」という傾向が強いため、一向に改善が進まないことにもなる。
「苦戦で戦死してこそ名誉」
ここで、一九三九年(昭和14)にレコードが発売された軍歌いや民間の軍国歌謡『父よ あなたは強かつた』(作詞・福田節)の一番と二番を見ていただきたい。
〈一.
父よ あなたは強かつた
兜も焦がす 炎熱を
敵の屍と 共に寝て
泥水すすり 草を噛み
荒れた山河を 幾千里
よくこそ 撃つてくださつた
二.
夫よ あなたは強かつた
骨まで凍る 酷寒を
背も届かぬ クリークに
三日も浸って ゐたとやら
十日も食べずに ゐたとやら
よくこそ 勝つてくださつた〉
じつはこの歌詞は、レコード発売前年の一九三八年(昭和13)に『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』が合同で募集した「皇軍将士に感謝の歌」の懸賞募集の一等に当選した作品なのである。これより七年前の一九三一年(昭和6)には、朝日新聞は公募当選作品と称し、実際は社員が作詞した『満洲行進曲』を発表し慶應義塾大学の応援歌『若き血』を作曲した一流の作曲家堀内敬三に作曲を依頼。翌一九三二年(昭和7)にはレコードが発売され、全国的に大ヒットした。
内容は「満洲は日本の生命線(中国侵略と言われようとアメリカがなにを言おうと、絶対に死守しなければいけない)」というもので、まさに一九三一年に満洲事変を始めた陸軍にとっては絶好の応援歌になったことは間違い無い。もちろん、それに伴い新聞も売れに売れただろう。
そこで味を占めた朝日は、今度は「皇軍将士に感謝の歌」で戦争応援(=部数拡大)を策して公募に踏み切ったわけだ。ところが、この歌詞もよく見ていただきたい。一番に「泥水すすり 草を噛み」とあり、二番には「十日も食べずに ゐたとやら」とある。つまり、最前線への補給が全然できていなかったと言っているわけだ。
ほかの国の軍隊ならば当然「我が軍の兵站は安定している。前線の兵を餓えさせることなどあり得ない」と主張し、こうした歌が発表されることに難色を示すだろう。しかし、陸軍がそのような抗議をした形跡は無い。そもそも当選作を決めるにあたって、当然朝日は陸軍の意見を聞いているはずである。発表後に難色を示されたらレコード発売などその後のスケジュールが狂ってしまうからだ。