真っ白のテスラ車を運転して取材場所にやってきた黒田アーサー
「ハイスクール卒業後、ロサンゼルスへ移ってカレッジに通い、その夏休みに帰国したとき、母親の知り合いの松竹のプロデューサーに僕がバイリンガルだ、ということで紹介されたんです」
当時は制作費が潤沢にあった時代。2時間ドラマ1本を制作するのに、1カ月の海外ロケを行い、15人ほどのスタッフと一緒にカナダを横断した。
「僕は通訳兼コーディネーター、そして製作も務め、食事のときにはスタッフ全員のオーダーをまとめたり、ホテルに泊まってスタッフから『部屋の水が出ない』と聞けばフロントに電話して対応をお願いしました。“バイリンガルである”というのが第一条件だったのは、そのためだったんです(笑)。大変でしたけど、みんなでひとつの作品を作りあげるのがすごく楽しく、撮る前は『いい思い出に』という感覚で引き受けたのが、撮った後には裏方でも俳優でも、とにかくこの世界にもっと関わりたいという思いに変わっていました」
「主役を演じたのだから、顔も知られ、新しい仕事が次々入るのだろう」と期待し、そのまま米国の大学は休学。日本に残る道を選んだ。
「もちろん、そんなに簡単に仕事は得られませんでした(笑)。仕方がない、大学は出ておこう、と思って明治大学経営学部に転入したり、深夜番組の司会の仕事をしたりしていました」
たまたま、その深夜番組の司会を見ていた、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった“欽ちゃん”こと萩本欽一に呼ばれ、大人気バラエティー番組『欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子』(フジテレビ系)に“普通の下宿人”役で出演することに。黒田さんの人気・知名度は、一気に全国区となった。
「オーディションかどうかもわからないまま、フジテレビの『欽ドン!』のスタジオのセットに呼ばれ、萩本さんに『指さして“それ!”ってやってみて』と言われました。ダメ出し続きで、100回ぐらい。半分キレそうになって、テキトーに『それ!』と言ったら『OK』と(笑)。飾らず、力を抜いてやるのが正解だったんでしょうね」
そこから黒田さんの活躍は始まるのだが、これまでの芸能活動を振り返り、「運が良かった」と語る。
「まったくの素人が、いきなり主役でデビューでしたから。人との出会い、縁にも恵まれました。芸能生活40年を過ぎ、もう年齢は60歳を過ぎましたが、自分のなかでは『まだ60歳』。これから、まだ何かが始まる。そんな気持ちなんですよ」