1974年8月30日、丸の内の三菱重工ビルで時限爆弾が爆発。爆風でほとんどの窓ガラスが割れた(時事通信フォト)
「すぐに他の警察官らと現場に向かった。移動中にも警察無線から声が聞こえてくる。最初はタクシーのプロパンガスが丸の内で爆発したという話だった。そう聞いて、あり得るなと思った。当時、タクシーはプロパンガスを車体に積み込み、それを燃料にして走っていたからだ。そのガスが何かの拍子で爆発したというから、負傷者がいなければと思った」(S氏)
ところが、現場へ向かうまでの道はすでに渋滞が始まっていたという。無線の内容も時間を追って変わっていく。「しばらくするとプロパンガスではなく爆発物かもしれないという。これは大変だと思ったが、現場は想像できないほどひどかった」。いっこうに進まない車を降り、S氏らは歩いて現場へと向かった。
爆発の威力はすさまじく、道路には窓が割れ、すすけた車が何台も立ち往生し、幌が吹き飛ばされボディがつぶれた車や横倒しになったトラックが道をふさいでいた。だがS氏の目の前には見たことのない異様な光景が広がっていた。「路上一面をガラスの破片が覆っていた。何百メートルにも渡り、通りに面したビルの窓ガラスが割れ落ち、細かい破片となって道路を埋め尽くしていた。歩くと空からガラスの粒がパラパラと降ってきた」。ザクザクとそのガラスを踏みながらS氏は現場へと向かったという。
玄関前に到着すると、両側の柱が大きく凹んで歪み、エントランスの柱は曲がっていた。犯人は正面玄関前の両側に2個の時限式ペール缶爆弾を仕掛けて爆発させたのだ。血だらけの犠牲者やうめき声をあげる重傷者が次々と運び出されていく。負傷者の身体にはガラスの破片が突き刺さっていたため、救助するS氏らの手も血だらけになった。だが救出活動は簡単ではなかったという。
「誰かが大声で叫ぶと、その声の振動で窓に残っていたガラスがバラバラと降ってきた。救助する側が救出されるようなことにならないよう注意を払ったが、いつどこからガラスがザーッと滝のように落ちてくるかわからなかった。誰もが血まみれだ。壁は吹き飛び、柱は歪み、エレベーターの壁も壊れていた。階段を上っていくがいつ崩れ落ちるかわからない。動いていたエレベーターもいつ落ちるかわからなかった。そこにいた誰もが生きた心地がしなかったと思う」
救出活動は何時間にも及んだという。
東アジア反日武装戦線による連続企業爆破事件での死亡者8人、重軽傷者400人超という無差別テロ事件で、警視庁公安部が犯行への関与を特定したのは10人。武装戦線のメンバーや協力者9人は逮捕され、さそりのメンバーだった桐島容疑者ともう1人の男は全国指名手配された。男は1982年に逮捕され有罪となり、行方の知れなかった桐島容疑者とみられる男は今回、病院で死亡した。逮捕された9人のうち3人は、日本赤軍が起こした事件の超法規的措置で釈放され出国。1人は海外で拘束されたが、残る2人は今も逃亡を続けている。事件はまだ終わっていない。