仏教も儒教も取り入れたが、「日本風」だ、時代時代で「流行」も違う。その奥底にあるのは芥川龍之介が短編小説『神神の微笑』で指摘した「造り変へる力」で、では「造り変へる」主体はなにかと言えば、天皇信仰と怨霊信仰である。これは二つの信仰が対立しているというより同じカードの裏と表で、キリスト教で言えば神と悪魔の関係に似ている。
中世ヨーロッパでは国民すべてが神を信仰しているのに、なぜ疫病や戦争といった災厄が起こるのか、その理由を悪魔や魔女がこの世を乱しているからだとした。日本も同じで、神の子孫である天皇が支配している以上災厄は起こらないはずだが、実際には起こる。それはこの世で満たされず、あの世で魔縁と化した怨霊が世を乱しているからだ。
だが、そうした怨霊も丁重に鎮魂すなわち慰霊をすれば、怨霊変じて御霊つまり「よい神様」になってくれる。だから平安時代の人間は大怨霊と化した(みなした)菅原道真を天神に祀り上げ、丁重に慰霊した。それゆえ「天神様」は学問の神様として尊敬されるようになった。
そういう信仰があるからこそ、天皇家は平安時代末期に大怨霊と化した崇徳上皇の「天皇家を没落させ民をこの国の王とする」という呪いが実現して、朝廷が幕府に権力を奪われた、と考えていた。合理的に考えるなら、天皇家がケガレ忌避思想の影響で軍事や警察業務から手を引き、その結果それを担う武士たちに政権を奪われたのだが、宗教的には朝廷勢力は権力喪失の原因を崇徳上皇のタタリだと考えていたのである。
だからこそ幕末、孝明天皇崩御後に皇太子祐宮は直ちに即位せず、崇徳上皇御陵に勅使を派遣しこれまでの罪を詫びた。その宣旨が読み上げられた日(崇徳上皇の命日)の翌日に正式に即位した。直後に天皇は、崇徳上皇の神霊を輿に乗せて京都に帰らせ神として祀った。それがいまも京都市上京区東飛鳥井町にある白峯神宮である。そして天皇がこの白峯神宮を直接参拝した翌日、はじめて元号は慶応から明治に変えられた。
念のためだが、これは宮内庁の公式記録にもある歴史上の事実である。そればかりでは無い、崇徳上皇八百回忌にあたる一九六四年(昭和39)九月二十一日、昭和天皇は弟宮の高松宮を勅使に同行させ四国の崇徳天皇陵を参拝させた。歴代天皇の命日には宮内庁職員が御陵を代参するが、それに皇族が付き添うことは異例中の異例である。おそらく、翌月に迫っていた東京オリンピック(第18回)の成功と国土の安寧を祈られたのだろう。このことも当日の新聞に載っている事実である。
そういう国であるからこそ、日清・日露戦争で大日本帝国のために死んだ「十万の英霊」の存在がいかに重要なものかわかるだろう。江戸時代初期、明暦の大火でも十万人の人間が死んだが、これは被災者である。それとはまったく違い、この十万人の犠牲者は天皇のために自らの意思で命を捧げた人間である。前回も述べたように「この死は絶対に無駄にしてはならない」のだ。
そして、なぜそうなるのかもおわかりだろう。その死を無駄にしたら十万の英霊は十万の怨霊となり、あらゆる災厄をこの国にもたらすからである。
(第1411回へ続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2024年3月8・15日号