この言葉は、この著者によれば加藤の「大正四年における日支交渉の顛末」という講演で語られたものだそうだ。加藤高明自身も、この要求を「一つとして己の方に貰ふものはない。皆やる方ばかりだ」つまり「やらずぶったくり」であることを正確に認識していたのだ。そして著者は、さらに次のように自己の見解を述べている。
〈加藤は武力で袁世凱政権を威圧したが、二十一ヵ条要求問題で戦争を起こす気はなかった。さりとて、中国側に要求を受諾させる手段には乏しく、交渉が妥結するか否かは、袁世凱の決心による所が極めて大きかった。最終的に交渉は、袁世凱が最後通牒を受諾することで妥結したが、もし彼が受諾しなければ、交渉はさらに長引き、事態が紛糾した可能性も十分あった。加藤は、最後は袁世凱の決断に救われたという思いを持っていたようで、前述の講演の中で、袁世凱について次のように述べている。〉
(引用前掲書)
その加藤の述懐はこうだ。長いので一部省略して紹介する。
〈兎角の評はありますが袁世凱といふ人が彼処に居ったのが仕合せであった。兎に角えらい人であったと思ふ。善悪は知らずえらい人であった。遙に輩を抜いて居った。(中略)袁世凱を悪く言ふ者もありますが、(中略)兎に角非常な遣り手であったといふことは確かに思へる。あの人が当時あの職に居ったことは、日支の談判を満足に成し遂げた事に就て確かに有力なる要件であった。〉
(引用前掲書)
つまり加藤は、この要求が日本にとって一方的に都合がよい理不尽なものであることも認識していたし、他の多くの日本人のように袁世凱を「帝制復活をめざした超保守派」として軽蔑していたわけでも無い。もちろん、すでに述べたように大隈首相に強制されたわけでも無い。にもかかわらず、外交の専門家である加藤は、要求を押し通すという愚行を為した。じつに不思議ではないか、評伝の著者が「この侵略的で悪名高い外交を、なぜ加藤が行ったのかを合理的に説明することは難しい」と言うはずである。