ワーナー・パイオニアで中森明菜のデビュー前から足掛け5年ディレクター・プロデューサーを務め、『オマージュ〈賛歌〉to 中森明菜』(シンコーミュージック・エンタテイメント)の共著者でもあるディレクター、プロデューサー島田雄三氏は、『北ウイング』を選んだ頃のことを語る。
「1984年、新しい基軸を作ろうと考え、清純なバラードでも突っ張りのロックでもない曲として、4つの候補から『北ウイング』を選びました。明菜は負けん気の強さを持つ一方、レコーディングの時にドーナツを皿に盛って、スタッフ全員に配るような優しい子です。だからこそ気遣いのできない人に落胆する。夜中の2時頃、悩み相談の電話がありました。時には怒り、時には涙を流すなど、難しくてかわいくて、これほど手間のかかるアーティストは他にいませんでした。でも私は、明菜に巡り会えて本当に幸せでした」
デビュー当時の明菜を知るタレントの清水国明は、人となりと歌唱の魅力について語る。
「明菜ちゃんのデビューから数年間、『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京)で毎月のように会っていました。“突っ張り”と言われてましたけど、そうは感じなかった。いつも満面の笑みで挨拶してくれて、腰も低かったです。『サザン・ウインド』を歌ってる時にドッキリで、後ろからバレリーナに扮した芸人が出てきた。怒らずに同じポーズを取って笑っていました。ドラマのコーナーで少年隊の東山(紀之)が死ぬシーンがあった時、演技ではなく本気で泣いていたんじゃないかな。感受性が強いから人を惹きつける歌を歌えるんだと思います」
新しいアイドル像を追い求めた聖子、アイドルからアーティストへ舵を切った明菜。2大アイドルにとって、1984年はまさに分岐点だったといえる。
取材・文/小野雅彦、岡野 誠
※週刊ポスト2024年7月19・26日号