大杉は既婚者だったが、離婚しないまま人妻の伊藤野枝と日蔭茶屋つまり当時のラブホテルで逢瀬を重ねていた。いわゆる「ダブル不倫」だったのだが、問題は大杉が神近にも手を出していたことだ。つまり、三角ならぬ「四角関係」ということで、嫉妬に狂った神近が日蔭茶屋に乗り込んだのである。

 神近は、大杉では無く野枝を殺すつもりだったようだが果たせず、結局大杉に重傷を負わせて逮捕され実刑判決を受け服役した。その後の経歴は事典にあるとおりだ。戦後のことだが、この話を「モデル」に映画も作られた。

『エロス+虐殺』(監督・吉田喜重、主演・岡田茉莉子、細川俊之)で、この作品は建前としてはフィクションなのだが、当時「名士」だった神近はこの映画の公開にあたり、自身の名誉権とプライバシー権の侵害を理由に上映の差し止めを求めて提訴したが、「神近市子の日蔭茶屋事件を扱った映画『エロス+虐殺』のばあいは、素材となった事実が世上公知であり、映画化に当たって低劣不当な意図はないとして、神近市子氏の映画の上映禁止の請求を退けている」(『日本近代文学大事典』講談社刊)。

 つまり、ひと昔前までは、これは「誰でも知っている」事件だったのである。

 この事件、詳しい場所と人名を伏せて、つい最近あった事件だと記述しても誰もが信じるに違いない。そこが明治と大正の違いでもあり、明治時代にはこんな事件は考えられなかった。やはり時代は前に進んでいるのだ。もちろんこういう感覚は明治、大正、昭和といった元号と関連性がある。

 単純に西暦だけを記すやり方は、日本史、とくに近現代史の記述にはそぐわないと私は考えている。第一それでは、大正デモクラシーとか昭和維新とかいった言葉がきわめてわかりにくくなってしまうではないか。やはり、日本史の記述には元号併記が不可欠なのである。

 ところで、もう一つの重要な出来事とは、物理学者のアルバート・アインシュタインが一般相対性理論を発表したことだ。アインシュタインは、すでにこの十一年前に特殊相対性理論を発表しており、世界で一番有名な公式「E=mc2」もそれで知られるようになり、この一般相対性理論によってこれが全人類の常識となった。これは世界史、いや人類史を変えた重大事件なのだが、日本の歴史学界は視野が狭いうえに理科系の話はとくに苦手(笑)なようで、こんな重大なことの意味がさっぱりわかっていない。わかっていたら、私のようにそれを重大事件として解説するはずなのだが。批判ばかりしていても仕方が無いので、解説しよう。

 たとえば、蒸気機関という「エンジン」がある。これはいまでこそ時代遅れだが、発明された当時は歴史を変えた。陸上では蒸気機関車が、海上では蒸気船が稼働するようになり、日本人が黒船と呼んだ蒸気船が明治維新を引き起こしたことはすでに述べたとおりだ。そして、歴史を語る者は必ずしも蒸気機関の原理やメカニズムをすべて理解する必要は無い。すべてを理解するのはエンジニアの役割であり、歴史を語る者はその性能ともたらす効果を認識すればいい。たとえば「蒸気機関のパワーは巨大で、木造帆船では不可能であった重砲の搭載や金属装甲が可能だった」とか「木造帆船のように風待ちをする必要が無いので、年間を通じて運航できた」などである。

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