ライフ

【書評】『帝国と観光「満洲」ツーリズムの近代』 「記憶の地層」を観光するための異色ガイド本

『帝国と観光「満洲」ツーリズムの近代』/高媛・著

『帝国と観光「満洲」ツーリズムの近代』/高媛・著

【書評】『帝国と観光「満洲」ツーリズムの近代』/高媛・著/岩波書店/4730円
【評者】辻田真佐憲(近現代史研究者)

 先日、満洲国の首都だった長春(旧称新京)を訪れた。そのとき、同行した高齢の通訳がぽつりと漏らした。

「日本人はもう、あまり来なくなりました」。

 かつてはそうではなかった。戦後、中国渡航が解禁されると、旧満洲に暮らしていた日本人が思い出の地へ続々と旅立ち、かれら通訳を忙殺させていた。

 だが、満洲が日本人にとって観光地となったのは戦後にはじまったことではない。日露戦争直後には早くも、朝日新聞が販促キャンペーンの一環として満洲観光ツアーを企画し、陸軍省と文部省も「風紀振粛」や「元気作興」を掲げて、学生の修学旅行を共催した。

 南満洲鉄道も観光誘致に熱心で、多くの文化人を現地へ招いた。なかでも夏目漱石が明治末に記した『満韓ところどころ』は、満洲のイメージを大衆化させるうえで大きな役割を果たした。

 その結果、日中戦争前年の一九三六年には、日本からの訪問者は一三万三〇〇〇人にも達した。満洲は、日本人にとって一大観光地でもあったのである。その営みは現地邦人との交流を通じて同胞意識を育み、他方では「遅れた」中国への優越感を醸成した。公的な後押しがあったのは、観光が有効なプロパガンダとみなされたからだった。

 では、戦後の旧満洲ツアーは政治と無縁だったのか。けっしてそうではない。一九八〇年代以降、日本の右派的な歴史観に対抗するように中国では歴史博物館の整備が進められた。いま現地におもむくと、そうした施設で中国側のプロパガンダを大量に見せられることになる。

 観光とは、中立的でも静的でもない。訪問者と迎える側、それぞれの願望や政治的文脈によって絶えず形を変える、本質的に可変的な営みなのである。本書は浩瀚な学術書ながら、そうした旧満洲が抱える「記憶の地層」を観光するための異色のガイド本としても推薦できる。

※週刊ポスト2025年6月27日・7月4日号

関連キーワード

関連記事

トピックス

4月12日の夜・広島県府中町の水分峡森林公園で殺害された里見誠さん(Xより)
《未成年強盗殺人》殺害された “ポルシェ愛好家の52歳エリート証券マン”と“出頭した18歳女”の接点とは「(事件)当日まで都内にいた」「“重要な約束”があったとしか思えない」
NEWSポストセブン
「最近、嬉しかったのが女性のファンの方が増えたことです」
渡邊渚さんが明かす初写真集『水平線』海外ロケの舞台裏「タイトルはこれからの未来への希望を込めてつけました」
NEWSポストセブン
「父としての自覚」が芽生え始めた小室さん
「よろしかったらお名刺を…!」“1億円新居”ローン返済中の小室圭さん、晩餐会で精力的に振る舞った理由【眞子さんに見せるパパの背中】
NEWSポストセブン
多忙なスケジュールのブラジル公式訪問を終えられた佳子さま(時事通信フォト)
《体育会系の佳子さま》体調優れず予定取り止めも…ブラジル過酷日程を完遂した体力づくり「小中高とフィギュアスケート」「赤坂御用地でジョギング」
NEWSポストセブン
吉田鋼太郎と夫婦役を演じている浅田美代子(『あんぱん』公式HPより)
『あんぱん』くらばあ役を好演の浅田美代子、ドラマ『照子と瑠衣』W主演の風吹ジュン&夏木マリ…“カッコよくてかわいいおばあちゃん”の魅力
女性セブン
麻薬密売容疑でマグダレナ・サドロ被告(30)が逮捕された(「ラブ・アイランド」HPより)
ドバイ拠点・麻薬カルテルの美しすぎるブレイン“バービー”に有罪判決、総額103億円のコカイン密売事件「マトリックス作戦」の攻防《英国史上最大の麻薬事件》
NEWSポストセブン
宗教学者の島田裕巳氏(本人提供)
宗教学者・島田裕巳氏が皇位継承問題に提言「愛子天皇を“中継ぎ”として悠仁さまにつなぐ柔軟な考えも必要だ」国民の関心が高まる効果も
週刊ポスト
広島県を訪問された天皇皇后両陛下(2025年6月、広島県。撮影/JMPA)
皇后雅子さま、広島ご訪問で見せたグレーのセットアップ 31年前の装いと共通する「祈りの品格」 
NEWSポストセブン
無期限の活動休止を発表した国分太一(50)。地元でもショックの声が──
《地元にも波紋》「デビュー前はそこの公園で不良仲間とよくだべってたよ」国分太一の知られざる “ヤンチャなTOKIO前夜” 同級生も落胆「アイツだけは不祥事起こさないと…」 【無期限活動停止を発表】
NEWSポストセブン
出廷した水原被告(右は妻とともに住んでいたニューポートビーチの自宅)
《水原一平がついに収監》最愛の妻・Aさんが姿を消した…「両親を亡くし、家族は一平さんだけ」刑務所行きの夫を待ち受ける「囚人同士の性的嫌がらせ」
NEWSポストセブン
TOKIOの国分太一(右/時事通信フォトより)
《あだ名はジャニーズの風紀委員》無期限活動休止・国分太一の“イジリ系素顔”「しっかりしている分、怒ると“ネチネチ系”で…」 “セクハラに該当”との情報も
NEWSポストセブン
夫・井上康生の不倫報道から2年(左・HPより)
《柔道・井上康生の黒帯バスローブ不倫報道から2年》妻・東原亜希の選択した沈黙の「返し技」、夫は国際柔道連盟の新理事に就任の大出世
NEWSポストセブン