2020年に引退した元プロレスラーの中西学さん
1989年から全日本レスリング選手権大会4連覇、1992年にバルセロナ五輪フリースタイル100kg級出場と、鳴り物入りで新日本プロレスに入門した中西学さん(58)。レスリングのエリートコースを歩んできたと思いきや、中西さんは中学生まではレスリング未経験だった。中学時代、通信簿に最低評価である「1」がズラリと並んだ問題児が、新日本プロレスのIWGPヘビー級王者へと成り上がるまでの半生を語った。【前後編の後編。前編を読む】
──ご出身は京都でご実家はお茶農家だったそうですね。
「京都の宇治で産まれ育ちました。地元のお茶農家の三男で、現実を見ないで空想ばかりしていたからか、親は僕を『外に出したらいかんな』と言って、中学を卒業したら実家の茶畑を手伝えって感じでした」
──レスリングを始めたきっかけはなんだったんですか?
「昔は通信簿と言いましたけど、中学の頃は図工が3、体育が2、それ以外すべて1という成績だったこともあって、酷いものでした。このままじゃダメだなと思って1回だけ努力してみようかなと思ったんですよ。
中学3年生の2学期は、先生から特別課題とかを出されたりして、提出物をちゃんと出すようにしたんです。それで、音楽だけは2やったけど、あとはなんとかオール3を取れた。先生に頼み込んでね(笑)」
──中学生ながらに考えて現状を打破しようと思ったんですね。
「たまたま志望していた地元の高校にレスリング部があって、何も考えずクラスメイトのみんなに『高校に入ってレスリングやってオリンピック目指すんや』と言い出していた。とんでもないやつですよね。それまでレスリングもスポーツもやったことないのに」
──努力の末、無事に第一志望だった宇治高等学校(現:立命館宇治高等学校)に入学。レスリングと出会いました。
「当時は京都府内でレスリングをやっている高校が3校あったんですけど、だいたい母校が府の代表になることが多く、近畿大会や全国大会まで進むので、練習は学校内でもいちばん遅くまでやってたんじないですかね。午後3時半くらいから夜8時くらいまで練習をしていました」
──のちに全日本レスリング選手権を4連覇する中西さんはそこから“覚醒”した。
