作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十六話「大日本帝国の理想と苦悩」、「大正デモクラシーの確立と展開 その5」をお届けする(第1470回)。
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歴史事典の「李承晩ライン」の項目は、なぜきわめて悪質なのか?
それは、これらの項目を執筆した左翼歴史学者が、説明のなかでもっとも肝心なこと、つまり二つの事件を書き落としていることだ。前回は日本歴史学界の標準的な学説を収録していると定評のある歴史事典の記述を引用したが、ここでは日本を代表する百科事典の記述を紹介しよう。
〈李承晩ライン りしょうばんライン
大韓民国大統領李承晩が1952年1月18日に発した〈海洋主権宣言〉によって設定された区域。この水域の表面・水中・海底にあるすべての天然資源、鉱物、水産物を韓国政府が保護・保全・利用する権利をもち、水産、漁業に対し主権を行使する、ただし航行の自由は妨げないとした。日本では李ラインと通称され、韓国では当初〈李承晩(イスンマン)ライン〉、〈海洋主権線〉と呼ばれたが、のちに後者は〈平和線〉と改称した。その区域は東側は咸鏡北道慶興郡牛岩面高頂、北緯42°15′東経130°45′、北緯38°東経132°50′、北緯35°東経130°、北緯34°40′東経129°10′、北緯32°東経127°を結んだ線、南側は北緯32°の線、西側は北緯32°東経124°、北緯39°45′東経124°、鞍馬島西端、韓・華(中国)国境の西端をそれぞれ結んだ線を境界とする朝鮮半島周辺の水域である。1945年9月28日に出されたトルーマン・アメリカ大統領の大陸棚と水産資源保存水域に関する二つの宣言にならったもので、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効すると、マッカーサー・ライン(1945年9月27日に指定され、49年9月には東経130°、北緯24°にまで拡張され、1950年5月には一定区域でのカツオ、マグロ漁業が許可された)が撤廃され日本漁船の操業範囲が拡大されるため、それを制限することを目的とした。韓国政府は1953年12月12日、漁業資源保護法を制定し、李ライン内に入った日本漁民をこの法律違反として漁船とともに大量に拿捕(だほ)するにいたり、釜山収容所に抑留した。1952年から開始された日韓会談で日本側からこの不当性が主張され、1965年、この会談の合意により李ラインは廃止され日韓漁業協定にもとづき、韓国沿岸12カイリを韓国の専管水域とした。〉
(『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者佐々木隆爾)
これから申し上げることについて記述されているか、されていないかが問題の根幹なので、煩をいとわず記述を全文引用した。その事件とはなにかと言えば、「韓国軍による日本人殺害事件」である。この事件が、この百科事典だけで無く前回紹介した日本歴史学界の標準的な学説を収録していると定評のある歴史事典にも掲載されていない。とんでもないことだが、左翼歴史学者やいわゆるオールドメディアがいくら事実を隠蔽しようとしても、ネット情報までは手が回らないようだ。インターネット上の百科事典Wikipedia(ウィキペディア)には、ちゃんとその項目がある。
〈第一大邦丸事件
第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじけん)とは、韓国海軍による日本民間人殺害事件。
朝鮮戦争中の1953年2月4日に公海上(済州島沖20マイルの農林漁区第284漁区と思われる海域。韓国側の主張では済州島沖9マイルとされる。)で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(57トン)』及び『第二大邦丸(57トン)』が、韓国の漁船『第一昌運号』及び『第二昌運号』(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕され、その際に第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎(当時34歳)が被弾して死亡した事件である。〉
これは、二〇二五年(令和7)十月上旬現在の記述だ。ウィキペディアは、紙(印刷物)の百科事典を「過去の遺物」とした。紙の百科事典は出版された途端に新しい情報の更新が不可能になり、そこから常に「古くなる」からである。その点、ネット上なら常に情報を更新できる。
