だが、問題が無いわけでは無い。基本的にこの項目記述は誰でも参加できるので、情報を歪めることを意図した人間がわざと事実と違う記述を紛れ込ませる可能性があるからだ。だから、この項目には「この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください」という注意書きがある。では、「ご協力」しよう。
まずは、一九五三年(昭和28)二月二十日付の『毎日新聞』朝刊の記事である。
〈賠償と保障を要求 船員射殺事件 政府 韓国へ嚴重抗議
去る四日第一、第二大邦丸が韓国側に捕獲されたうえ、乗組員一名が射殺された事件はわが国漁業界に異常なショックを与え国会でも衆議院水産委員会が中心となって事件の究明に乗出したが、政府も問題を重視、事件発生直後、外務省から駐日韓国代表部を通じ抗議を発したのに対し、その後韓国側から何ら応答がないので、十八日あらためて正式に厳重抗議を申入れた。今回の抗議では韓国側の陳謝、賠償のみでなく、さらに責任者の処罰、将来の保障を要求したものといわれる。〉
注意すべきは、これは事故では無く、故意の「射殺事件」だと日本政府も認定していることだ。
日本国中が憤激
この事件に関するすべての新聞記事を引用することはできないので、私なりに経過をまとめよう。
この年の一月に福岡を出港した第一、第二大邦丸は、二月四日には日本の領海で操業していた。ところが、当日の午前七時ごろ韓国の民間漁船を装った韓国警備艇が接近してきたので第一大邦丸が揚網作業に入ると、至近距離から無警告で自動小銃を乱射し第一大邦丸を攻撃した。日本側の二隻は慌てて逃げようとしたものの、銃撃で脅されやむなく停船した。このとき、第一大邦丸の操舵室内にいた瀬戸重次郎漁撈長が後頭部に被弾し、意識不明の重体となった。そして二隻は「翰林に行け」と命令された。
済州島の翰林に入港させられた二隻の日本人船員は下船を命じられ、憲兵や警察官によって腕時計などの私物および漁船の装備さらに漁獲物を奪われた。戦国時代の足軽の「乱妨取り」と同じだと言えばおわかりになるだろうか。女性の乗組員がいなかったのは幸いだった。
瀬戸漁撈長はまだ生きていた。しかし、韓国人の医者は「手遅れだ」と断定し治療しようとしなかった。「日本人ごとき」に貴重な薬品や手間をかけたくなかったのだ。これは想像で言っているのでは無い。船員達の必死の嘆願によって漁撈長は軍の病院に移送されることになったが、その間命を持たせるために船員たちは点滴用のリンゲルの注射を求めたところ、その医師に拒絶された。理由は「リンゲルは高価だから」である。