作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十六話「大日本帝国の理想と苦悩」、「大正デモクラシーの確立と展開 その6」をお届けする(第1471回)。
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韓国軍が、なんの罪も無い丸腰の日本人漁民・瀬戸重次郎漁撈長を射殺した第一大邦丸事件は一九五三年(昭和28)二月四日に起こったのだが、その約二年後に韓国軍が二十一名もの日本人漁民を「殺害」するという、最悪の事件が起こった。「第六あけぼの丸事件」という。
さて、あなたはこの事件をご存じだったろうか? 私の知る限り、ほとんどの日本人がこの事件を知らない。「戦前生まれ」で、現在八十歳以上の人のなかには辛うじて知っている人がいないでもないが、それは大規模な海難「事故」として記憶しているだけだ。もちろんと言うか、案の定と言うべきか、前回もご紹介した日本歴史学界の標準的な学説を収録したと定評のある歴史辞典にも、この事件についてはまったく記載が無い。
では、インターネットならどうか? 驚くべきことに、インターネット上の百科事典『ウィキペディア』にもこの事件についての項目は無い。「あけぼの丸」で検索すると、他にも「あけぼの丸」という船が存在するので自動的に「曖昧さ回避のためのページ」につながり、次の選択肢のなかのどれか? と聞いてくる。選択肢は以下の六つである。
〈あけぼの丸(宇和島運輸) – 宇和島運輸のフェリー。
あけぼの丸(大島運輸) – 大島運輸(現マルエーフェリー)のフェリー。
あけぼの丸(タンカー) – 1939年進水の日本海運の石油タンカー。
あけぼの丸(タンカー) – 2011年進水の新和ケミカルタンカーのLNGタンカー。
第二十八あけぼの丸 – 1982年にベーリング海で沈没した漁船。
宝伝港-犬島航路の定期船。犬島#交通参照。〉
一目瞭然とは、このことだろう、肝心の「あけぼの丸」は項目に無い(2025年10月現在)。念のために「第六あけぼの丸」でも検索してみたが、最初に出てきたのは、二〇二四年(令和6)三月に島根県の浜田漁港で消波ブロックに乗り揚げるという事故を起こした「漁船第六あけぼの丸」に関する運輸安全委員会の船舶事故調査報告書だった。やはりネットでもこの事件は軽視されている。だが、この事件は間違いなく実際にあった。当時の『毎日新聞』および『讀賣新聞』の記事を引用しよう。
〈21名が行方不明 漁船、韓国艦と衝突、沈没
【門司発】十五日朝七時ごろ米海軍佐世保基地から門司の第七管区海上保安本部に入った連絡によると、十四日夜十時四十分ごろ長崎県北松浦郡宇久島北東で日本漁船と韓国フリゲート艦六十一号が衝突、漁船は沈没し乗員二十五名が行方不明となった。日魯漁業下関支社から十五日正午長崎海上保安部への連絡によると、沈没漁船は同社所属トロール船第六あけぼの丸(三四二トン)=船長大迫重吉氏(五四)である。
長崎海上保安部から巡視船五隻、韓国警備艇二隻が捜索している。〉
(『毎日新聞』1955年〈昭和30〉2月15日付夕刊)
〈信号したが激突 あけぼの丸生存者語る 明らかに韓国軍艦の不注意
【佐世保発】韓国艦と衝突沈没した第六あけぼの丸を捜索中の長崎海上保安部巡視船「あまくさ」は遭難現場で韓国艦PF61号から救助された乗組員東航海士ら四名を十五日午後六時二十分収容、十六日午前零時四十分佐世保に入港した。
衝突と同時に海上に放り出され幸いにPF61号に助けられた四名の船員はいずれも巡視船の青の作業服を着て佐世保に上陸、 九死に一生を得た喜びの声をあげたが、さすが行方不明者二十一名の安否を気づかってか暗い表情のうちに当時の模様をつぎのように語った。
二等航海士東頑一氏談「十四日午後十時二十分ごろ長崎県北松浦郡生月島コシキ灯台沖で操業中、右後方でマストにつけた赤ランプ二個を近距離に認めたのでただちに懐中電灯で円をえがいて信号したが、 PF61号はそのまま前進して来たので力一杯取かじを取ったが横腹に衝突されアッという間に沈没し機関室にいた者は全滅、士官室にいた者は浮上した。私は夢中で海中に飛び込んだが、そのとき同僚十人くらいが泳いでいたのでみんな脱出に成功したものと思っていた。約二十分泳いでいたところを内火艇に助けられ、はじめて相手の船が韓国軍艦であることがわかった。船長や、副長は見舞にこなかったが私の船は上げんと船尾、船首に赤ランプをつけて公海を航行していたので明らかに韓国軍艦の不注意と思う」〉
(『讀賣新聞』同年2月16日付朝刊)
