作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十六話「大日本帝国の理想と苦悩」、「大正デモクラシーの確立と展開 その9」をお届けする(第1474回)。
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さて、前回と前々回は歴史を深く知るための「余談」について、その効果と実例について考察したわけだが、そろそろ本題に戻ろう。「大正デモクラシーの確立と展開」である。ここで、これまで語ってきた記述の内容を時系列的に整理しておく必要がある。
歴史の記述が面倒でわかりにくいのは、歴史的な事件は項目ごとにまとめて解説しなければならないのに、実際の事件はアトランダムに起こることだ。たとえば現在記述している一九一九年(大正8)前後には、その後の日本史に大きな影響を与えたにもかかわらず、わりと目立たないテーマ「シベリア出兵」がある。
正確には「シベリア出兵とその失敗」と言うべきだが、政府も軍部もこの問題ばかりに関わってきたわけでは無い。外交なら「国際連盟にどう対応するか」があり、内政なら「普通選挙法をどう確立するか」があった。軍部でも、陸軍はシベリア出兵の他に「満洲問題」を抱えていたし、海軍は英米との関係をどうしていくべきか悩んでいた。
ちなみに、当時の世界三大海軍国は日・英・米であり、日本はイギリスとは日英同盟を結んでいたがアメリカとはそういうものは無い。むしろ日本は、中国進出を国策としていたアメリカとはそれを牽制する形を取っており、なにかと両国の間はギクシャクしていた。アメリカは日露戦争のときに講和の音頭を取ってやったから日本は勝つことができたと考えており、それはアメリカの一方的な思い込みでは無く客観的な事実でもあったから、アメリカ国内では反日感情が生まれてきており、それは後に日本人移民排斥という大きな流れにつながることになる。
また水面下の問題として進行していたのは、「天皇の御健康」問題である。半世紀近い治世を全うした明治天皇と違い、「今上天皇」(崩御後は大正天皇と呼ばれた)は幼少のころから病弱で何度も大病を患った。それでも一夫一婦制を守り皇后との間に四人の男子(後の昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮)を儲けていたので「皇統断絶」の不安は無かったが、おそらくは「大正時代」は明治と違って「短く終わる」ということは、政府も軍部も共通認識としてあったようだ。
なぜそんなことがわかるのかと言うと、政府は普通こうした問題は絶対に表に出さず隠しとおそうとするものだが、一九二〇年(大正9)三月三十日に宮内省が「陛下の御不例」を隠さず(病名はあきらかにせず)公表したからだ。隠しきれなくなった、ということである。
そして、この時点では天皇は当時の皇室典範によって終身在位するもので、平安時代のようにあるいは現代のように「上皇(太上天皇)」として事実上の引退をすることは不可能であった。しかし大日本帝国は「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と憲法によって定められた国家であるから、天皇がなにもできなければ国家は機能不全となる。誰かが代わりを務めなければいけない。
