大日本帝国は欧米列強の侵略から日本民族を守るという意図のもとに結成された国家だから、平安時代の言霊に縛られた貴族たちなら絶対に考えない「天皇が万一執務不可能になったらどうするか」という事態に対しても対応策を講じていた。皇室典範に摂政(天皇代理)の設置について規定があったのだ。そこで、皇太子の裕仁親王(のちの昭和天皇)が一九二一年(大正10)に満二十歳を迎えたところで摂政に就任し、以後「摂政宮」と呼ばれた。
ところで、「摂政」という地位について日本人は大きく誤解をしている向きがあるので念のため注意を喚起しておきたい。摂政とは日本においては天皇代理、王制がある国では国王代理を意味するが、これは本来「皇族(王族)」がなるものだ。臣下にはその資格が無い。日本でも聖徳太子(厩戸皇子)が務めたときはそうだった。
しかし、その後臣下に過ぎない藤原氏が天皇を「お飾り」に祀り上げてコントロールするため、天皇が子供のころは摂政、成人しても関白という形を作り上げてしまった。いわゆる藤原摂関(摂政関白)政治だが、このため家臣に過ぎない藤原氏のなかから摂政になった人間が何人もいる。
平安時代以降、江戸時代までそれがあたり前だったので、摂政とは皇族以外でもなれるものだと誤解している人がいる。本来は絶対就任できないはずなのである。それどころか藤原氏は天皇が成人しても、その権力を勝手に代理できる地位まで作った。これが関白で、天皇の権限を代行できる身分であるがゆえに敬称は大臣などを呼ぶ「閣下」では無く、皇族しか使えないはずの「殿下」だった。
これは日本だけの特殊事情なので、世界の常識とはまったく違う。これまでに何度も説明したことだが、日本では皇族以外が「天皇を殺して自分が天皇になる」ことが不可能なので、藤原氏はこうした「迂り道」をとらざるを得なかったのだ。このあたりのことが初耳である人、初耳では無いが詳しく知りたいという方は、とりあえず『コミック版 逆説の日本史 古代暗闘編』(小学館刊)を読んでいただきたい。
ここは日本史の「急所」なのだが、本連載の古くからの読者にとってはあたり前のことなので詳しく解説はしない。とにかくこの時代、少なくとも国家の上層部は「まもなく大正の御世は終わる。ただし摂政宮は若くてお元気なので、次の時代は長く続くだろう」という暗黙の了解のもとに動いていたことは頭に入れておく必要があるだろう。
また皇室典範についても一九一八年(大正7)に規定の一部が追加され、皇族と王公族の婚姻が認められるようになった。王公族というのは、韓国併合によって大韓帝国皇帝一家が与えられた称号である。皇帝の称号を残すと天皇と対等ということになってしまう。前にも述べたとおり、朱子学に毒されて西洋近代化がまったくできなかった韓国を立て直すには一度日本の傘下に入る必要がある、というのが真の改革派の思いであった。
だから日本は彼らに「王」の称号を与えた。だが一種の格下げであることは間違いないから、退位させられた大韓帝国皇帝高宗は不満を抱いていたに違い無い。そもそも彼は西洋近代化など絶対認めないから腹心の重臣李完用らにも見放され息子の純宗に譲位させられたのだが、朱子学を絶対の正義とするならば李完用らは「逆臣」であり、高宗改め「徳寿宮李太王」の「思し召し」に従い大韓帝国再興を企てることが「正義」になる。
李太王は一九一九年一月に病死したのだが、「日本に殺されたのだ」という噂が広まり、それが李承晩らの扇動によって「三・一独立運動」につながった。この運動に対する評価はすでに述べたとおりだ。ここでは、皇室典範が増補され「日本皇族と李王家」の通婚が可能になったことを記憶の隅にとどめていただきたい。