歌満くら 第十図 秋の夕(Aflo)
役者絵は描かない
蜜月とも呼べる強力なタッグを組んでいた蔦重と歌麿だが、徐々に疎遠になっていく。
「歌麿の存在があまりにも大きくなり、もはや蔦重ひとりでは縛りきれない存在になってしまったのではないかとみられています。たとえるなら、日本のプロ野球選手がメジャーリーグを目指して飛び出していくようなことだったのかもしれません」
『べらぼう』では蔦重の発案で歌麿が「東洲斎写楽」の役者絵(役者の顔が大きく描かれた独特の構図)を生み出すが、永井氏はこの展開に否定的だ。
「写楽の正体については、阿波徳島藩の能役者・斎藤十郎兵衛説がほぼ定説になっており、現在ではかつてのような“謎の絵師”という神秘性は薄れつつあります」
むしろ、写楽の存在により、蔦重と歌麿との間に溝が生まれた可能性もあるという。
「幕府の出版統制令をかいくぐってきた蔦重は、やがて役者絵に力を入れるようになり、最後は写楽で大勝負に出ました。当時は多くの絵師が生活のために役者絵を描いていたので、ある意味、必然の流れだったのかもしれません。
しかし、歌麿は役者絵をほとんど描きませんでした。そこには彼の春画絵師としての強烈なプライドがあったのでしょう。“役者絵は役者の人気に乗っかって売れるもの。自分はそんなものには頼らない”と、役者絵を否定していたことが伝わっています。
ある時期までは蔦重が歌麿のその自信をうまくコントロールし、役者絵に行かなくてよいよう導いていましたが、蔦重自身が役者絵重視にシフトしてしまった。これもまた疎遠の原因になったのではないか」
ちなみに、いまでこそ写楽は高く評価されているが、当時はまったく売れなかったという。
「ヒット企画を連発してきた蔦重は、人生最後の大博打で敗れたのです」
蔦重は寛政9年(1797)、脚気のため47歳で他界。歌麿はその後も創作を続け、享和2年(1802)には三大春画の最後となる『絵本小町引』を世に送り出した。しかしその2年後、筆禍事件によって彼の人生も暗転する。
「秀吉の『醍醐の花見』を風刺交じりに描いた浮世絵で幕府の禁忌に触れ、手鎖50日の刑に。この事件で心身ともに衰えた歌麿は、2年後の文化3年(1806)に亡くなりました」
その後、歌麿の絵は海を渡り、19世紀後半、葛飾北斎らとともにヨーロッパでジャポニスム旋風を巻き起こした。歌麿の春画は世界の美術史にしっかりと刻まれたのだった。
※週刊ポスト2025年12月19日号
