クールス一覧

【クールス】に関するニュースを集めたページです。

橋幸夫は来年5月3日をもって歌手活動にピリオドを打つ
橋幸夫が語る“御三家”「テルは甘え上手。舟木はライバル心むき出し」
 昭和を代表するスター・橋幸夫が、来年5月3日をもって歌手活動にピリオドを打つ─―。その知らせを聞いて居ても立ってもいられなくなったのが、『週刊ポスト』で「昭和歌謡イイネ!」を連載するクレイジーケンバンドの横山剣だ。激しく妖しくも華やかだった当時の芸能界のあれこれを、橋と横山が振り返る。【全5回の第5回。第1回から読む】 * * *横山:橋さんといえば、舟木一夫さん、西郷輝彦さんと並んで「御三家」と呼ばれました。先日、西郷さんは残念ながら、お亡くなりになってしまいましたが。橋:御三家と一括りにされるけれど、僕と他の2人は、デビューの年が離れている。僕が1960年で、舟木君が1963年、西郷君が1964年。“橋に追いつき追い越せ”と、ライバルのプロダクションが探し当てた若者が彼らだったんです。横山:おふたりの印象について聞かせてください。橋:かわいいなと思うのは、テルの方だったね。彼は甘え上手なんですよ。一方、舟木は僕に対して、ライバル心をむき出しにしてましたね(笑)。横山:三人三様のパワーで引っ張り合って、お互いを高めているように見えました。ただ、僕からすると、やっぱり存在感が図抜けていたのは、橋さんだったと思います。橋:みんな忙しかったからね。僕らは、ほとんど仕事場でしか顔を合わせたことがありません。プライベートで酒飲みに行ったことなんか一度もないし。でも……弟のように思っていたテルがいなくなったのは、本当に淋しい。横山:今年、西郷さんがこの世を去り、来年には橋さんが歌手活動から引退される。ひとつの時代の終わりを感じますね。橋:僕、歌手は辞めますが、芸能活動自体はまだ続けるんですよ。この4月からは、新しいチャレンジを始めました。横山:興味深いですね。橋:大学生になったんです。京都芸術大学の通信教育課程に新設された書画コースに入学しました。僕は多忙で、高校にはほとんど通えず、卒業証書も母親が代わりに受け取ってきたぐらいですから、高等教育には憧れがある。今後の大学生活を、思う存分楽しみたいですね。横山:橋さんと一緒の空間にいると、細胞のひとつひとつが、躍動している様子が伝わってきますよ。人生の大先輩として、これからも橋さんを見習ってまいります!(了。第1回から読む)【プロフィール】橋幸夫(はし・ゆきお)/1943年、東京都荒川区生まれ。1960年に『潮来笠』でデビューし、日本レコード大賞新人賞を受賞。『いつでも夢を』、『霧氷』で2度の日本レコード大賞受賞。現在、“最後のコンサートツアー”で全国を回っている。横山剣(よこやま・けん)/1960年、横浜出身。1981年にクールスRCのヴォーカル兼コンポーザーに抜擢されデビュー。1997年春、地元本牧にてクレイジーケンバンド結成。これまでに数多くのアーティストにも楽曲を提供している。構成/下井草秀 撮影/内海裕之※週刊ポスト2022年5月6・13日号
2022.05.06 07:00
週刊ポスト
いろいろと羽を伸ばしたい時期だったが…
橋幸夫 人生で最もモテる時期に「はさみ将棋ばかりしていた」苦い思い出
 昭和を代表するスター・橋幸夫が、来年5月3日をもって歌手活動にピリオドを打つ―─。その知らせを聞いて居ても立ってもいられなくなったのが、『週刊ポスト』で「昭和歌謡イイネ!」を連載するクレイジーケンバンドの横山剣だ。激しく妖しくも華やかだった当時の芸能界のあれこれを、橋と横山が振り返る。【全5回の第4回。第1回から読む】 * * *横山:地方の公演先では、それなりのお楽しみもあったんじゃないかと思うんですが。橋:バンドの連中は、楽器を弾きながら、ずっと客席の女の子を品定めしてるわけ。ステージが終わると、即座にその子のところに駆けつけ、「夜の何時に、〇〇旅館に来てくれ」と逢引の話をパッパッとまとめちゃう。横山:うわあ、役得ですね。バックのミュージシャンですらそれだけモテたのなら、主役の橋さんは、さぞかしウハウハだったんじゃないですか? 最高の10代ですね!橋:いやいや、18や19だった自分が一番遊んだっていいはずなのに、そうは問屋が卸さなかった。横山:えっ、うまい話はなかったんですか?橋:付き人として、僕に同行していたのが、実の姉でして……。バンドのメンバーが「一緒に遊びに行こうよ」と誘ってきても、「絶対行っちゃいけません」と僕を止める。楽屋にだって、女の子なんかひとりも入れないんですから。その間、僕以外のみんなは、いろいろと羽を伸ばしていたみたいですけどねえ。横山:その間、橋さんは何をしていたんですか。橋:はさみ将棋をやっていました(笑)。私の青春、真っ暗ですよ。姉貴に見張られる生活は、都合4年間も続きました。その姉貴、おかげさまで80過ぎた今も、ピンピンしてますけど(笑)。横山:お姉さんから解放された後は、自由を謳歌なさったことでしょうね。橋:まあ、ご想像にお任せします(笑)。その頃からは、村田英雄さんを始めとする先輩方が、お座敷に連れて行ってくれるようになりました。横山:楽しそうですね。橋:いろいろと勉強させていただきました(笑)。それに比べ、最近の若いタレントはかわいそう。だって、マスコミの監視が厳しくて、人生で最もモテる盛りの時期に、自由に遊べないんだから。横山:何かあると、週刊誌に撮られちゃうし、最近じゃあ、ネットにも見張られてますから。橋:僕らの若い頃は、今みたいな写真週刊誌もなく、芸能を取り扱う雑誌といえば、月刊誌の『平凡』『明星』『近代映画』ぐらいしかなかった。横山:懐かしいですね。橋:その記者たちは、地方公演に密着して、飯を食べるのも風呂に入るのも、すべて僕と一緒。ただし、芸能界の内々のことは、絶対表に漏らさないというのが鉄則だった。やっぱり、お互い夢を売るのが仕事でしたからね。(第5回へ続く)【プロフィール】橋幸夫(はし・ゆきお)/1943年、東京都荒川区生まれ。1960年に『潮来笠』でデビューし、日本レコード大賞新人賞を受賞。『いつでも夢を』、『霧氷』で2度の日本レコード大賞受賞。現在、“最後のコンサートツアー”で全国を回っている。横山剣(よこやま・けん)/1960年、横浜出身。1981年にクールスRCのヴォーカル兼コンポーザーに抜擢されデビュー。1997年春、地元本牧にてクレイジーケンバンド結成。これまでに数多くのアーティストにも楽曲を提供している。構成/下井草秀 撮影/内海裕之※週刊ポスト2022年5月6・13日号
2022.05.05 07:00
週刊ポスト
激しく妖しくも華やかだった昭和の芸能界のあれこれを、橋と横山が振り返る
歌手引退の橋幸夫が語る昭和の芸能界 “その筋の人”が仕切っていた時代
 昭和を代表するスター・橋幸夫が、来年5月3日をもって歌手活動にピリオドを打つ──。その知らせを聞いて居ても立ってもいられなくなったのが、『週刊ポスト』で「昭和歌謡イイネ!」を連載するクレイジーケンバンドの横山剣。橋が横山とともに1960年代の芸能界を振り返る。【全5回の第3回。第1回から読む】 * * *横山:当時と現在の芸能界では、どんな点に顕著な違いがありましたか。橋:1960年代は、いわゆるその筋の人たちが興行に関して権利を保有し、ショーの一切合財を仕切っていました。横山:興行権の話は聞いていましたが、こうして橋さんから直接、お伺いすると、実にリアルです。橋:強面の人たちが、年中堂々とレコード会社に出入りしていたんだから、おかしな世界でしたよ。横山:コンプラの厳しい昨今では、考えられないですね。橋:しかも、あの頃は警察の力が弱くて、何も手を出せなかったよね。警備のために地元の警官が会場の楽屋に来ると、ヤクザが「何しに来た。俺たちがいるから、警察なんていらねえよ!」とすごんで、追い返しちゃうんだから(笑)。横山:何かトラブルは起こりませんでしたか。橋:若き日の僕の身に降りかかった最大の災難が、1963年に起こった金沢での襲撃事件です。横山:襲撃? おだやかじゃないですね。橋:当時は、コンサートのクライマックスともなると、お客さんが舞台に上がってくるのが普通でした。ファンから、千羽鶴などのプレゼントを受け取ったりしてね。横山:大らかな時代だったんですね。橋:その回では、聴衆でごった返すステージ上に、ピカッと光る何かが目に入った。気がつけば、軍刀を手にした男が、僕に何度も斬りつけてくる。自衛のために強く刃を握り締めた後遺症で、僕の手には、いまだに曲げることのできない指があるんです。横山:散々な目に遭いましたね。(第4回へ続く)【プロフィール】橋幸夫(はし・ゆきお)/1943年、東京都荒川区生まれ。1960年に『潮来笠』でデビューし、日本レコード大賞新人賞を受賞。『いつでも夢を』、『霧氷』で2度の日本レコード大賞受賞。現在、“最後のコンサートツアー”で全国を回っている。横山剣(よこやま・けん)/1960年、横浜出身。1981年にクールスRCのヴォーカル兼コンポーザーに抜擢されデビュー。1997年春、地元本牧にてクレイジーケンバンド結成。これまでに数多くのアーティストにも楽曲を提供している。構成/下井草秀 撮影/内海裕之※週刊ポスト2022年5月6・13日号 
2022.05.04 07:00
週刊ポスト
昭和の芸能界についても振り返る
橋幸夫、吉永小百合とのデュエット曲『いつでも夢を』秘話 初めて会ったのはレコ大
 昭和を代表するスター・橋幸夫が、来年5月3日をもって歌手活動にピリオドを打つ──。その知らせを聞いて居ても立ってもいられなくなったのが、『週刊ポスト』で「昭和歌謡イイネ!」を連載するクレイジーケンバンドの横山剣だ。大ヒット曲『いつでも夢を』について、橋が語る。【全5回の第2回。第1回から読む】 * * *横山:作詞の佐伯孝夫さん、作曲の吉田正さん、歌手の橋幸夫さんというゴールデントライアングルが手がけた名曲のひとつが、1962年発売の『いつでも夢を』。橋さんと吉永小百合さんとのデュエットは、国民的大ヒットを記録、レコード大賞も受賞しました。橋:僕も小百合ちゃんも、あまりに忙しすぎたから、スケジュールが合わず、仕方なくレコーディングは別々だったんですよ。オーケストラも一緒に録音するのが当たり前だった当時においては、常識外れの試みだった。横山:それはすごい。橋:実は、2人が初めて会ったのは、レコード大賞の受賞会場だった日比谷公会堂でした(笑)。横山:生中継では、ほぼぶっつけ本番でデュエットを披露したわけですね。橋:そうそう。デュエットの場合、普通は間奏のところで互いに目を合わせるじゃない? でも、彼女は僕の顔をまったく見ないんですよ。勝ち気な子だと思ったなあ(笑)。大女優の片鱗を見ましたよ。横山:当時の『平凡』の人気投票で男性部門は橋さんが、女性部門では吉永さんが、それぞれトップを獲得していました。橋:年間首位の副賞として、2人に3泊4日の香港旅行がプレゼントされたことがあるんです。横山:それは豪勢ですね。橋:旅先では、ちょっとしたイタズラを仕掛けました。ホテルの小百合ちゃんの部屋に内線で電話をかけ、僕がインチキな中国語でペラペラとしゃべり出したら、「え、どなたですか?」と彼女が戸惑っている。しばらくして「橋ですけど」と明かしたら、「なーんだ、やめてよ!」と怒っていましたけどね(笑)。横山:天下の大スター2人がオフでは、ずいぶんと無邪気な遊びに興じていたものですね(笑)。橋:息抜きですからね。(第3回へ続く)【プロフィール】橋幸夫(はし・ゆきお)/1943年、東京都荒川区生まれ。1960年に『潮来笠』でデビューし、日本レコード大賞新人賞を受賞。『いつでも夢を』、『霧氷』で2度の日本レコード大賞受賞。現在、“最後のコンサートツアー”で全国を回っている。横山剣(よこやま・けん)/1960年、横浜出身。1981年にクールスRCのヴォーカル兼コンポーザーに抜擢されデビュー。1997年春、地元本牧にてクレイジーケンバンド結成。これまでに数多くのアーティストにも楽曲を提供している。構成/下井草秀 撮影/内海裕之※週刊ポスト2022年5月6・13日号
2022.05.03 07:00
週刊ポスト
橋幸夫(右)とクレイジーケンバンドの横山剣が対談
橋幸夫『潮来笠』秘話「曲名が読めなかった。『しおくるかさ』って何だろうと」
 昭和を代表するスター・橋幸夫が、来年5月3日をもって歌手活動にピリオドを打つ──。その知らせを聞いて居ても立ってもいられなくなったのが、『週刊ポスト』で「昭和歌謡イイネ!」を連載するクレイジーケンバンドの横山剣だ。 激しく妖しくも華やかだった当時の芸能界のあれこれを、橋と横山が振り返る。知られざる、あの国民的大ヒット曲の裏話や盟友・西郷輝彦との思い出など、心躍る秘話が飛び出した!【全5回の第1回】 * * *横山:実は、初対面となるこの機会に、僕から橋さんに、お礼を申し上げるべき件があるんです。橋:えっ、何ですか?横山:亡くなった僕の実父は、レコード会社の販促グッズ等を作る会社を営んでおりました。一時期、社業が傾きかけたんですが、取引先のひとつであるビクターから、同社に所属する橋さんの『霧氷』(1966年)をプロモーションする垂れ幕などの発注を受け、奇跡的に会社を立て直すことができたんです。橋:はいはい。あの垂れ幕、業界じゃ「ふんどし」と呼ぶんですよね(笑)。横山:だから、今日こうしてお会いできたことには、運命を感じます。橋:そうだったんですか。それはそれは奇縁ですね。横山:そして、橋さんの音楽は、クレイジーケンバンドの重要なルーツのひとつでもあります。1964年から、立て続けにリリースされた一連のリズム歌謡には、とても大きな影響を受けました。橋:ああ、『恋をするなら』『恋のメキシカン・ロック』『あの娘と僕(スイム・スイム・スイム)』『ゼッケンNo.1スタートだ』『チェッ・チェッ・チェッ(涙にさよならを)』と続く連作ですね。横山:ええ。あのリズム歌謡のシリーズは、一体どのようにして産声を上げたのかうかがいたくて。橋:……それを話すとなると、僕のデビューまで遡ることになりますが、よろしいですか?横山:もちろんです!橋:長くなりますよ(笑)。横山:大丈夫です。覚悟は整っております(笑)。橋:僕は、『潮来笠』を引っさげて1960年にデビューしましたが、まず、この曲名が読めなかった。「しおくるかさ」って、何だろうと思ったぐらいで(笑)。横山:僕も、橋さんが歌ってくれなかったら、茨城県のこの地名を正確に読めなかったと思います。橋:正直、歌詞の内容もよく理解しておらず、これがラブソングだと気づいたのは、リリースから2年後のことでした(笑)。横山:小学5年生の頃、僕は近所の路上で、中古レコード実演販売のお手伝いをしていましたが、その時、意味もわからず『潮来笠』を歌っていたことを思い出します。橋:17歳でのデビュー以降、数年間は『潮来笠』みたいな股旅モノや青春歌謡、そして、時代劇の主題歌を歌ってきたんですけど、やっぱり、自分にフィットした新しい感覚の楽曲を歌いたくなってくる。横山:そうですよね。橋:ずっと作曲を手がけていた吉田正先生に、「いつまでこういう曲を歌うんですか」と聞いたら、「大丈夫。お前の気持ちは、わかってるよ」という。横山:ああ、なるほど。すべてお見通しだったわけですね。橋:そうこうするうち、吉田先生がラスベガスに遊びに行った折に、エレキギターのブームの予感を察知した。横山:それは卓見ですね。橋:吉田先生は、作曲家というより、プロデューサーだったんですよ。常に新聞記者や評論家といったブレーンを抱え、日々、最新の情報を分析していた。横山:今で言うマーケティングを、しっかり行なっていたんですね。橋:そう。吉田先生にしてみれば、それまではフランク永井さんや三浦洸一さんといった大人の歌手ばかりに楽曲を提供していたところに、いきなり17歳の若者が現われたものだから、実験精神に火が点いたんでしょうね。横山:『葉山ツイスト』など、僕らのバンドにおける昭和にワープのヨコワケハンサムな楽曲は、橋さんのリズム歌謡の存在がなければ、決して生まれませんでした。橋:新時代に、僕の遺伝子を継いでくれる後輩が現われてくれたことは、本当に光栄に感じています。横山:作詞の佐伯孝夫さん、作曲の吉田正さん、歌手の橋幸夫さんという組み合わせは、『潮来笠』もリズム歌謡も一緒。今聴くと、同じ作家が書いたとは思えません。作風の幅が広すぎる(笑)。橋:ええ、さすがですよ。(第2回へ続く)【プロフィール】橋幸夫(はし・ゆきお)/1943年、東京都荒川区生まれ。1960年に『潮来笠』でデビューし、日本レコード大賞新人賞を受賞。『いつでも夢を』、『霧氷』で2度の日本レコード大賞受賞。現在、“最後のコンサートツアー”で全国を回っている。横山剣(よこやま・けん)/1960年、横浜出身。1981年にクールスRCのヴォーカル兼コンポーザーに抜擢されデビュー。1997年春、地元本牧にてクレイジーケンバンド結成。これまでに数多くのアーティストにも楽曲を提供している。構成/下井草秀 撮影/内海裕之※週刊ポスト2022年5月6・13日号
2022.05.02 16:00
週刊ポスト
【坪内祐三氏書評】関根&小堺も輩出、「ぎんざNOW」舞台裏
【坪内祐三氏書評】関根&小堺も輩出、「ぎんざNOW」舞台裏
【書評】「テレビ開放区 幻の『ぎんざNOW!』伝説」/加藤義彦・著/論創社/2000円+税【評者】坪内祐三(評論家) 一九七一年に区立中学校に入学し野球部に入った私は、翌年、新校舎建築のため同部が休部になった時、大いに不満だったけれど、今ではラッキーだったと思っている。何故なら、帰宅部となったから、同年(一九七二年)夕方五時からTBSで始まった生番組『ぎんざNOW!』を毎日見ることが出来たので。様々な点で文化レベルの高い番組だった。 デビュー直後の荒井由実や甲斐バンドやクールスを知ったのもこの番組によってだし、あのキャロルがレギュラーだった。そのくせ、「新御三家」や「花の中三トリオ」をはじめとするアイドルたちもたくさん出演した。 この本の巻末に「主な出演者」というリストが載っているのが有難いが、それを眺めて行くと一九七四年五月二十九日に「殿さまキングス」とあってアヴァンギャルドだ(何しろその前日は西城秀樹、翌日はあいざき進也、翌々日は山口百恵なのだから)。 しかし『ぎんざNOW!』と言えば何といっても「しろうとコメディアン道場」だ。この本の第一章も「有名芸人を数多く輩出―『しろうとコメディアン道場』」となっている。五週連続で勝ち抜けばプロへの道が開かれるこの「道場」の初代チャンピオンは関根勤で、小堺一機もその出身だ(私が一番面白いと思ったのは竹中直人)。 その中でアダ花のように人気が出たのが六人組のグループ「ザ・ハンダース」だ。その内の一人佐藤茂樹(桜金造)が私は大嫌いだった。何故なら駿台予備校に通う浪人だった彼は東大を目指していることを売り物にしていたから。しかし彼が通っていたのは駿台でも無試験で入れる昼間部で、東大の入試よりも入るのが難しいと言われていた午前部ではなかったのだ。 ところで私は「花より団子」という天才落語少年のことがずっと気になっていた。五週勝ち抜いたのに彼はプロの道に進まなかった。そんな彼は十七歳の時に桂枝雀に弟子入り。つまり桂雀々の少年時代だったのだ。私は驚きつつ、さもありなんとも思った。※週刊ポスト2019年12月20・27日号テレビ開放区
2019.12.20 16:00
週刊ポスト
新しい芸を得た田代まさし(イラスト/ヨシムラヒロム)
田代まさし「アンチ覚せい剤の生ける教科書」として地位確立
 お茶の間で人気だった有名人が罪を犯したあと、再び世間に受け入れられるには長い時間と地道な積み重ねが求められる。しかし田代まさしの場合、4度の逮捕と2回の懲役は、軽やかな笑いという彼の芸風に深く傷を付け復帰を難しくした。ところが、ネット番組という、彼の全盛期には存在しなかったメディアが登場したことで、田代は新たな芸風を獲得しつつある。イラストレーターでコラムニストのヨシムラヒロム氏が、NHK Eテレに出演を果たした田代まさしがネット番組で得たものについて考えた。 * * * 一流芸能人であっても、身を持ち崩す可能性がある。自らを商品とする職業は危うい、一寸先は闇だ。 ある芸能人がピエール瀧のニュースに対して、「芸能人は宝くじが当たったようなものなのに……」と言っていた。数年前からテレビに出戻りしたヒロミは「色々な仕事をやったけど芸能人が一番儲かる。身一つでできるしね」と語る。 以上の発言から、売れっ子芸能人は夢のような生活を送っていることがわかる。しかし、当たり券を自ら放棄する芸能人も多い。過去、何人もの失落者を見てきた。そのなかで最も衝撃的だった人物の1人が田代まさしだろう。 不良から成り上がり、全盛期には夕方ニュースのキャスターまで務めていた。しかし、2000年の盗撮で書類送検された報道をキッカケに急転直下で転がり落ちていく。2001年には覚せい剤取締法違反で逮捕。その後、同じ罪を3度も重ねる。田代は刑務所に計7年収監され、メディアからも消えた。 2014年に出所、罪を償ったとはいえテレビ復帰は難しい。ところが、意外な形でテレビに登場する機会を得る。2016年に清原和博が覚せい剤取締法違反で逮捕された際、薬物の恐ろしさについて、身を以て体験した有識者としてコメント。以後、「芸能人と覚せい剤」の専門家・田代は時折メディアに現れた。しかし、そこには過去「小道具の天才」と呼ばれた面影はない。淡々と薬物の怖さについて語るだけ。 当たり前だが、笑いと犯罪の相性は悪い。田代は犯罪を犯したことにより、ふざけることを禁じられた。反省の日々を送る側面だけがクローズアップされる。 しかし2018年、真面目さだけを求められ続けた風向きが変わる。キッカケはネットテレビの隆盛だ。7月に田代はアイドル“THE BANANA MONKEYS”のPVに出演、といっても一緒に踊ることはなく、アイドル相手に授業を敢行。科目は自分史である。『やらかし先生~やらかし人生から学ぼう~』と銘打ち、自身の栄光と没落を解説。「マーシーこそ、失敗を重ねて表舞台から姿を消えつつある有名人が教師を務める人気番組『しくじり先生』に出るべきだ!」といったファンの妄想を実現化した。 そして、PVで解禁となったのが“覚せい剤と笑い”のミックス。過酷な経験談を話芸に昇華する。不謹慎な言い方をあえてするが、元シャブ中芸人・田代が解禁となった。「覚せい剤を打つと覚せい剤中毒という病気になる。『やりたい』といった気持ちがなくなることはないです。完治はない、だから怖いんだよね」と平易な言葉で自身の病状を語る。笑いと真面目を行き来しつつ、覚せい剤を解説する田代。個人的にこのPVはかなり響いた。 僕は長年覚せい剤の注意喚起について疑問を持っていた。 キッカケは大学時代に受けた保健の授業。ある時のテーマが覚せい剤だった。そこで教員は「スピードと呼ばれるものは、疲れをなくし、高揚感を生み出します」と覚せい剤の種類別の効能を紹介。そもそもやるつもりがない僕にとって知らなくていい情報である。期末のテストでは覚せい剤の名称と効能を線でつなげる問題が出題された。覚せい剤の効能を精一杯伝道する教員のアホさに辟易とする。 覚せい剤の報道のあり方もおかしい。通り一遍に覚せい剤の怖さを解説したのち、なぜか紹介される具体的な入手方法。毎度、スタッフが隠しカメラ片手に渋谷の裏路地に出向く。「これが売人だ……」といったナレーションとともに、売人の特徴を丁寧に解説。 上記の事柄を知っても覚せい剤への嫌悪感は生まれない。むしろ若年層にとっては興味が生まれる可能性も。授業と報道が「覚せい剤のススメ」のように感じた。『やらかし先生』で「刑務所から出てきても誰も助けてくれない。孤独になると、さみしいからまたやってしまう……」と田代は話す。多くの日本人が覚せい剤によって田代の富、名声、友達が失われたことを知っている。ゆえに言葉の浸透率が並じゃない。 同じく2018年10月にはAbemaTVに出演。スピードワゴン相手に元シャブ中芸人トークを展開。田代にしかできない話芸を披露した。 2019年6月には、『田代まさし ブラック マーシー半生と反省を語る』と名付けたYouTubeチャンネルを開設。毎回、ロックンロールバンド「クールス」のリーダー佐藤秀光と対談している。田代が語るのは現在働く更生施設「ダルク」での日々。なかでも印象に残ったやりとりを記したい。佐藤「ダルク、何年いるの?」田代「4年。今までは3年半経ったら、また手を出していたの……。それをやっと超えたんですよ!!」 どんな会話だよ!とツッコミたくなるトークを披露。現在、5本の動画が公開されている。特筆すべきこととしては、1つ新発見があった。薬物の後遺症だろうか、テレビに出演するたびに危うさを感じた滑舌の衰えが若干回復。間違いなく2018年の動画と比べて、良くなっている。 そして、先週飛び込んできたニュースに驚く。なんと7月4日、11日にEテレ『バリバラ~障害者情報バラエティー~』に田代が出演。タイトルは「教えてマーシー」、ここからもわかるように“覚せい剤と笑い”を混ぜた講義を披露。放送前にはYouTubeでダイジェスト版も配信された(どんだけマーシーに力を入れるんだNHK……)。 そのサムネイルも攻めている。満面の笑みで親指を立てる田代と紫色に輝く「クスリの魔力」の文字。NHK、完璧どっかおかしくなってる(褒め言葉)。 田代曰く「(刑務所は)売人の知り合いができたりと、悪のコネクションを広げる場所」。覚せい剤の根本治療にならない。条件的にやれないだけで、本音はやりたくて仕方なかったという。『やらかし先生』から一歩踏み込んだ授業をしていた。 2度の懲役を経て出所した田代にとって、ネット番組は重要である。不謹慎なお笑いを拒む傾向が強まるテレビ番組に、彼の新しい芸がすぐ受け入れられる可能性は低い。PV、AbemaTV、YouTuberで慣らし運転。“覚せい剤と笑い”がネット視聴者に受け入れられた先にEテレでの授業がある。ネット番組が存在していなければ、田代はお茶の間へ再び登場できなかった。 田代を追いかければ、覚せい剤の本質が理解できる。治療で処方される薬は病を治すためのものだが、覚せい剤は中毒を発病させる。 過去、公の場で覚せい剤の体験談を明るく語る人はいなかった。ゆえに田代は新しい、そこに嫌悪感を抱く人がいることは理解できる。ただ、悪事に手を染めてはいけないことを喚起するトークがつまらない必要はない。ユニークな語り口の方が沁みる場合もある。なんの因果か、アンチ覚せい剤の教科書になる人物は今のところ田代以外いない。●ヨシムラヒロム/1986年生まれ、東京出身。武蔵野美術大学基礎デザイン学科卒業。イラストレーター、コラムニスト、中野区観光大使。五反田のコワーキングスペースpaoで週一回開かれるイベント「微学校」の校長としても活動中。テレビっ子として育ち、ネットテレビっ子に成長した。著書に『美大生図鑑』(飛鳥新社)
2019.07.07 16:00
NEWSポストセブン
亡くなる前日、救急車がマンションに……
ショーケン、沢田研二、横山剣がヤクザとトラブったとき
 芸人が事務所を通さず“闇営業”をした先が、反社会勢力が主催するパーティや誕生会だったと、テレビ界に激震が走っている。表面化したあと「間接的」「知らなかった」など往生際が悪い現在の彼らと違い、昔のスターは問題が起きても潔かった。時代が異なると言ってしまえばそれまでだが、タレント本収集家としても知られるプロインタビュアーの吉田豪氏が、秘蔵の資料から往年のスターたちが、どのようにヤクザと渡りあったかについて振り返る。 * * * 昔は、ヤクザとトラブったときの対処がいまとは違っていました。 クレイジーケンバンドのリーダーの横山剣さんは、ヤクザに攫(さら)われてホテルに監禁されて、明らかにクスリやっている状態でピストルを突きつけられていたところを、当時クールスというグループで大先輩だった岩城滉一さんに救出されたと言っていました。まさに命の恩人なんですが、監禁されていた時の剣さんの精神状態もおかしくて。「でも不思議なもんで、そういう状況の中でもだんだん親近感が生まれたりとか、世間話もあったりして、むしろそこにガツンとくるという、ショックを通り越すと結構笑っちゃったり、これはいいネタになるなとか思って」(『POPEYE』2007年9月号) 精神が異常にタフなんですよね。 さらにすごいと思ったのが、亡くなったショーケン(萩原健一)がジュリー(沢田研二)と一緒にヤクザに攫われたときの話。昔の芸能人は、とにかくよくヤクザに攫われていた(笑)。『ショーケン』という自伝に載っているエピソードです。「実際、暴力団のコワイ人たちに拉致されたこともあった。(中略)大阪でグループサウンズ大会をやることになった。その公演のあと、ヤーさんたちに取り囲まれてさ。『坊や坊や、こっちに来な』沢田研二、堺正章、布施明と一緒に無理やり黒塗りのクルマに押し込まれてねえ。クラブに連れ込まれたと思ったら、いきなり、『歌え!』ぼくは黙ってた。泣きそうな顔しているのもいれば、 『歌っちゃおうよ』と言ってるのもいたけれど、キッパリと断ったのが沢田です。ヤクザに、面と向かってこう言った。『歌えないよ』偉い。こいつ、度胸あるなあ、と思った」 ジュリーは誰にでも喧嘩っぱやいんですが、ジュリーにしてもショーケンにしても、ヤクザと渡り合えるだけの度胸があったということ。いまの芸能人には、こういう伝説はもう生まれないだろうなと思います。(談)※週刊ポスト2019年7月12日号
2019.07.04 07:00
週刊ポスト
『終わった人』舘ひろしが再注目 「浮世離れ感」に熱視線
『終わった人』舘ひろしが再注目 「浮世離れ感」に熱視線
 定年退職した元銀行員役で映画『終わった人』に主演している舘ひろし(68)。その映画のPRもあって、今、バラエティーなどに引っ張りだこだ。そうした番組で舘が見せる素顔に視聴者も驚いている。コラムニストのペリー荻野さんがその魅力について解説する。 * * * 今、日本でいちばん幸せな俳優は、舘ひろしかもしれない。先週、主演作『終わった人』が公開。68歳にして主演映画が撮れるというのは、かの石原裕次郎もなしえなかったこと。俳優としてはそれだけでも十分幸せだと思うが、加えてその映画では妻が黒木瞳で、トキメキの相手が広末涼子と、男性ファンからすれば、こんな幸せはないだろうという顔ぶれである。 しかも、タイトルは切ないが、中身は観た人が前向きになれるコメディ。完成披露の会見映像などでは、観客の大拍手を受け、うれしいそうだったひろし。俳優にとって、作品を喜んでもらえることほど大きな幸せはないはずだ。 そんな中、映画の宣伝もあって、バラエティーにも多数出演していたひろしだが、そこで驚いたのは、世の中はこんなにも「舘ひろしの私生活」に興味があったのだということである。その追跡ぶりは、まさに「聞けるもんなら、今すぐ全部聞かなきゃ」という熱の入り方なのだ。 たとえば『誰だって波瀾爆笑』では、例によってこども時代からのひろしの歩みを紹介。名古屋の由緒ある病院の嫡男が上京後、突如としてリーゼントに黒ずくめのスタイルで大型バイクにまたがる日々がスタート。クールスから石原プロ入りして、装甲車も爆破もどんとこいの撮影を続けていく過程が詳しく語られた。そして番組ではふだん楽屋入りする際には、裸にバスローブ姿で、パンツはローブのポケットに入れていること。楽屋に「MYトースターとコーヒーメーカー」を持ち込んで、『超熟』6枚切り食パンにたっぷりとブルーベリーをのせて食す甘党であることなどを紹介。コンビニに行ったことがないというひろしに、「なんで行くの?」とスタッフのほうが逆質問されるシーンもあった。なんでって言われてもね…。 ひろしは、その数日後に放送された『メレンゲの気持ち』にもゲスト出演。「ドラマのセリフは全てカンペ」とか「家では皿洗い」「二十代から体形が変わらない」などという内容とともにバスローブ話とコンビニ話は再燃。「(コンビニに)傘が売ってるの?」と驚くひろしに、みんなが驚くという構図になった。 自宅の家具はアールデコ調で、いつも買う花はカサブランカ。そんなうちからバスローブで出てくるんですね。本人は、「どっちにしても衣装に着替えるんだからバスローブでいい」「蒸れるのが嫌だ」などと語っていたが、バスローブ出勤は、石原裕次郎、渡哲也の習慣を見習ったらしい。バスローブも「いただくんですよ」という。贈り物にバスローブ!? 誰から!? なんだかよくわからないが、この浮世離れした感覚こそが、「私生活を知りたい」という世間の欲求を呼び起こすもの。ひいてはひろしの幸せの源なのだ。 ちなみに筆者は、今から30年以上前、ひろしと仕事をしたことがあるが、当時から体形が変わっていないのも、甘党でスタッフみんなに甘いものを差し入れるというのも本当の話。映画スターの伝統を受け継ぐ男、ひろし。幸せな浮世離れ人生を歩み続けてもらいたいものだ。
2018.06.14 16:00
NEWSポストセブン
舘ひろしと岩城滉一 仲間の通夜で42年目の和解、男泣き抱擁
舘ひろしと岩城滉一 仲間の通夜で42年目の和解、男泣き抱擁
 一世を風靡した不良バイクチームのメンバーだった2人は、若くしてスターへの道を歩み始める。血判状で友情を誓い合い、青春を謳歌した仲。しかし、互いが互いを思い合うからこそ、「あいつのために」と起こした行動が衝突を生んでしまう。次第に疎遠になり、42年。彼らの友情を再び引き戻したのは、早すぎる「仲間の死」だった。「お前はどうしようもないヤンチャで、クールスに入れば規律を守るようになると思ったんだけど、お前は変わらなくて。もう一度みんなで走れたら、面白かっただろうな」 岩城滉一(66才)が弔辞を述べると、参列者のすすり泣く声が響いた。12月18、19日、神奈川県川崎市の寺院で伝説のバイクチーム『クールス』の元メンバーである「マチャミ」こと玉川雅巳さん(享年64)の葬儀が行われた。故人が愛用していた大型バイク、ハーレーダビッドソンのエンジンをふかし、仲間たちは爆音を聞きながら出棺を見送った。 通夜では、かつてクールスのメンバーだった舘ひろし(67才)と岩城が男泣きし、肩を抱き合って親友の死を悼んだ。 青春を共にし、芸能界の第一線で活躍してきた2人は、お互いを思いやるゆえに長らくすれ違いが生じていた。そんな彼らの抱擁は、メンバーにとってあまりにも感慨深い和解の光景だった。その姿を見ながら、ある参列者はこう思ったという。「マチャミの生き様と死が、クールスをもう一度1つにしてくれた」 出会いは40年以上前に遡る。1974年、それぞれバイクチームを組んでいた20代前半の舘と岩城が、都内の飲食店で鉢合わせた。眼光鋭い男たちのニアミスに、緊張が走る。だが、店の外に見知らぬ黒いバイクがズラッと並んでいるのを見た舘は、岩城にこう話しかけた。「あのバイク、きみたちの?」 以来、1才違いの2人は意気投合し、「少数精鋭で面白いチームを作ろう」と、原宿を拠点にしたバイクチーム『クールス』を結成する。元メンバーでミュージシャンの水口晴幸さん(65才)が当時を振り返る。「“縁起の悪い日がいい”と言って、12月13日の金曜日、東京・青山にあったハンバーガー店に集まってチームを結成してね。《このチームはリーダー(舘)の独裁により運営される》と書かれた血判状に、メンバー17人がナイフを握って右手中指に傷を入れ、血判を押したんだよ」(以下、「」内は水口さん) 黒い革ジャンに黒いジーンズ、リーゼントヘア、そして黒いバイクというそろいのスタイルで都内を走り回した。「おれらが走ると他の暴走族もバイクで集まってきて一緒に流すんだよ。そのうちパトカーも追っかけてきて、そしたら蜘蛛の子を散らすように逃げる。表参道に歩行者天国ができたのは、おれたちのせいだっていわれてたね」 クールスの名が一躍有名になったのは、1975年4月13日、日比谷野外音楽堂で行われた、矢沢永吉(68才)がリーダーを務める伝説のロックバンド「キャロル」の解散コンサートだった。熱狂するファンからキャロルを守る“親衛隊”を務めた彼らは脚光を浴び、レコード会社の誘いを受けてロックバンドとしてデビューすることが決まる。 だが、それが舘と岩城の間に溝を生むことになる。「滉ちゃん(岩城)は役者として東映から映画デビューが決まっていて、“なんとか他のメンバーも出られないか”って東映に掛け合ってくれていたらしい。でも舘は“バンドもやって、映画にも出たら、メンバーに驕りができてチームがまとまらなくなる”って心配したんだと思う。だから“バンドはやるけど、映画には出ない”って断りを入れた。滉ちゃんにしてみれば、“せっかく東映に話したのになんだよ”となった。その頃から、2人の気持ちにズレが出始めた」 俳優として人気の出た岩城は黒い革ジャンを脱ぎ、舘も1977年4月に脱退して俳優の道に。クールスは継続したが、メンバーはバラバラになった。「その後、メンバーで集まることは何度もあった。なにしろ血判を交わした仲だから、10年ぶりに会っても、一瞬で元の仲間に戻れる。だけど舘と滉ちゃんを一緒に呼ぶことはできなかった。みんな2人の関係に気を使っていたからね。でも、あの2人がそろわないと、クールスが戻ったとはいえないんだよ」◆棺の彼をリーゼントに そんな2人の距離を縮めたのが、創設メンバーの1人、雅巳さんの急病だった。雅巳さんはもともと岩城が連れてきたメンバーで、チームの中でいちばん“ヤンチャ”な存在。舘のマネジャーをしていたこともあり、2人とは深い間柄だった。 雅巳さんは昨年秋に心筋梗塞で倒れ、12月12日、危篤状態に陥ってしまう。「マチャミの奥さんが医者に“親族を呼んだ方がいい”と言われた時、“メンバーとは、血縁以上に深い絆で結ばれているから”って、おれに電話してくれたんだよ。お見舞いに行ったら、マチャミは人工呼吸器をつけて、ほとんど昏睡状態で。病室を出てすぐに舘に連絡し、他のメンバーにも声をかけ、14日夕方に病院に集まった。その時、滉ちゃんは来られなかったけど、スケジュール調整してその前にお見舞いに行っていたみたい」 奇しくも12月14日は、血判を押してクールスを結成したその翌日だった。「舘が耳元で“マチャミ!”って声をかけると、マチャミがパッと目を見開いてみんなのことを目で追って、両腕を上げてバイクに乗るような仕草をしたんだ」 雅巳さんが亡くなったのは、翌日の正午過ぎのことだった。「きっと、みんなが来るのを待ってたんだろう。おれが前に会った時は“元気になって、もう一度みんなで走りたい”って言っていたから」 通夜は、あたかもクールス再結集のようだった。岩城が疎遠になっていたメンバーにも声をかけ、17人の血判状メンバーのほとんどが顔をそろえた。黒い喪服姿の男たちは、口々に「おお、元気か」「あいつは死ぬやつじゃない」と言葉をもらした。 42年もの間、ぎくしゃくしていた舘と岩城も、まるで昨日もバイクで走り回っていたかのように、自然と声をかけ合う。肩を抱き合い、涙を流して早すぎる親友の死を悼んだ。「クールスがバラバラになったのをいちばん悲しんでいたのが、マチャミだった。“舘と岩城をなんとか元に戻そうよ”ってよく言ってたんだよ。だから今回、通夜で2人が抱き合っているのを見た時は、マチャミのおかげだな、あいつ天国で喜んでるだろうなと思った。通夜の後は、“もう1回、みんなで集まろう”って話になってね」 水口さんは棺で眠る雅巳さんの髪をリーゼントにし、出棺される彼を見送った。 12月24日の舘のディナーショー。雅巳さんの遺影を持って後方の列で見守るつもりだった水口さんに、舘が「ステージで何曲か歌ってくれよ」と声をかけた。40年来のファンたちが号泣したという。「翌日、舘が“楽しかったよ。またやろうよ”って電話してくれた。雅巳がつくってくれた再会を通じて、またみんなで何かできたらいいな」※女性セブン2018年2月8日号
2018.01.25 07:00
女性セブン
超愛妻家を公言する岩城滉一 なぜ週3回の銀座通いが可能?
超愛妻家を公言する岩城滉一 なぜ週3回の銀座通いが可能?
 場所は東京・世田谷の閑静な住宅街。自宅のガレージのシャッターが上がると、人懐こい笑顔で手招きする岩城滉一(65)の姿があった。「ここは完全にプライベート空間だから、滅多に人に見せたりしない。今日は特別だからね」と釘をさすが、中に入ると気さくに案内してくれた。「碁でも盆栽でも、何でもいいんだけど、何かに熱中している人間って魅力的だと思わない? だから、やりたいことは躊躇せずやった方がいいんだよ。俺の場合も、季節や体調に応じて、乗馬に行こうとか、3日あるからツーリングに行こうとなる。一つのことに絞れないんだね」 そんな言葉通り、ガレージは“遊び道具”で溢れている。フルチューンしたイタリア車のアバルトのほか、ハーレーダビッドソンやT-REX、すでに販売が終了しているノートンマンクスなど、特別仕様のバイクがずらりと並ぶ。奥にはスカイダイビング用のパラシュートやイタリア製のロードバイクのほか、パチンコ台まである。「昔はガレージの真ん中をターンテーブルにして、クルマがたくさん入るようにしていた。フェラーリとか値段の高いクルマ16台くらい置いていたんだ。でも、仲間が集まるようになって、寛げるスペースを作るために改築したから、物を置く場所は半分くらいになった。遊びはそれ自体楽しいけど、仲間と一緒に泣いたり笑ったりするのが一番だね。人生を楽しむっていうのはそういうことじゃないかな」 大勢の友人が岩城を慕って集まるが、岩城が自分も含めた誰よりも大事するのが、20歳の時に結婚し45年間連れ添うアンナ夫人だ。「世の中で俺ほど女房を大切にしている男はいないと思いますよ。もちろん、遊んでます。週に最低3回は銀座のクラブに行くし、お姉ちゃんのオッパイにも触ってる(笑い)。でも、年間300日は女房と一緒に晩飯を食べてる。銀座に行くのは、女房と飯を食べた後。だから、同伴したら晩飯2回の時もある。稼いだお金も、全額女房に渡しているんだからね」 愛妻家を公言して憚らない岩城が、最近趣味に変化が起きたという。それは意外にも庭いじりだった。「娘が結婚してニューヨークに行ってしまってね。この家もジジイとババアの2人だけ。女房と一緒にいる時間が多くなって、いつの間にかガーデニングをするようになったんです。でも、女房の植えたハーブを雑草と間違えて引っこ抜いて叱られてる。こっちの趣味はまだまだだね(笑い)」 自らを「10代は生意気盛りで20代は破天荒。30代から50代は滅茶苦茶だった」と振り返る岩城が、「今の俺は、『いい人』だよ」と笑う。さすがの岩城滉一も年をとったということか。「そりゃそうだよ。でも、煙草は1日60本は吸ってる。酒は昔から家はもちろん、銀座以外では飲まないけど、銀座に行けば1軒でボトル半分。1日3軒回れば1本半空けるってペースは今も同じだけどね。 まあ、そもそも男の50代なんてまだ小僧、本当にいい男になるのは60歳、70歳から。俺はこれから、もっともっといい男、いいジジイになりますよ。ひとつ心配事があるとするなら、長生きするかどうかってことだね。万が一俺より先に女房が逝ったらどうなるのよ。怖ろしすぎて想像すらできない(笑い)」◆いわき・こういち/1951年生まれ。東京都出身。1973年帝京大学中退後、バイクチーム「クールス」を結成、活動中に東映にスカウトされる。1975年、映画『新幹線大爆破』でデビュー。以後、『北の国から』シリーズ(フジテレビ系)をはじめ、『四十七人の刺客』など数多くの映画、ドラマに出演し、現在は映画『土竜の唄』の続編を撮影中。1980年代からレース活動をはじめ、現在は「51ガレージチームイワキ」の代表を務める。■撮影/江森康之 ■取材・文/工藤晋※週刊ポスト2016年7月1日号
2016.06.26 07:00
週刊ポスト
岩城滉一 大事故を経験してもレースに携わり続ける理由
岩城滉一 大事故を経験してもレースに携わり続ける理由
 耳をつんざくレーシングバイクのエンジン音、焼け焦げたタイヤの匂い、サーキットに轟く観衆のどよめき─興奮に包まれた「全日本ロード選手権シリーズ第3戦」の開催地・栃木県茂木町の「ツインリンクもてぎ」。だが、キャンピングカーで到着した岩城滉一(65)の顔色は冴えなかった。 代表を務める「51ガレージチームイワキ」のあるピットに入るなり、額に脂汗を浮かべる旧知のライダー・宗和孝宏に駆け寄る。朝の練習走行で転倒して紫色に腫れ上がった右脚に触れ、「無理するなよ」と彼の肩を叩いた。「何度も悲惨な事故をこの目で見てきたからね。下半身不随になったり、命を落としたライダーもいた。転んだって聞くと、たとえチームの仲間じゃなくても心拍数が上るんだよ」 国内最高峰の「全日本F3000選手権」など、多くのレースに参戦してきた岩城自身、転倒して指を切断するなど、大きな事故を経験、今も首に後遺症を抱えている。それでもレースに携わるのは、単にスピードやスリルが好きだからという理由だけではない。「うちのチームには20歳以下の若い子が3人いるけど、学校でいじめられたり、自閉症気味だったりで、苦しんでいた。でも、バイクは好きだと聞いて、大人としては面倒をみなきゃいけないと思ったわけ。自分のために頭を下げたりはしないけど、若い子のためなら頭を下げられる。でも、彼らも大人の中にいるから、俺も礼儀や挨拶にはうるさいし、叱るときはきっちり叱る。怖いジジイだと思ってるはず(笑い)」 芸能生活40年を超える岩城は、独特の色気とユーモラスな一面を併せ持つベテラン俳優だが、バイクにクルマ、クレー射撃やダイビング、ゴルフなど、趣味の人としても知られる。「どれが一番好きかってよく聞かれるけど、順番なんてありません。その瞬間、やりたいと思ったものをやってきたし、何かを極めたいとか思ったこともない。仕事は声がかかるからするんであって、2年くらい何もしない時期もあったけど、遊びに忙しくて仕事なんて忘れてました」 その岩城が今、映画、テレビドラマ、バラエティ番組に引く手あまた。最近も連日、2014年に公開された映画『土竜の唄』続編の撮影で朝5時には現場に入る生活を送っていた。「若い頃は、『やってくれと頭を下げられるからやっているんだ』と思っていたから、納得できないことがあると『ふざけんな』って噛みついていた。女房は何もいわなかったけど、最近は俺が仕事に出掛ける姿を見ると安心して嬉しそうな顔をするから、お呼びがあればどんな仕事にでも行くよ(笑い)」◆いわき・こういち/1951年生まれ。東京都出身。1973年帝京大学中退後、バイクチーム「クールス」を結成、活動中に東映にスカウトされる。1975年、映画『新幹線大爆破』でデビュー。以後、『北の国から』シリーズ(フジテレビ系)をはじめ、『四十七人の刺客』など数多くの映画、ドラマに出演し、現在は映画『土竜の唄』の続編を撮影中。1980年代からレース活動をはじめ、現在は「51ガレージチームイワキ」の代表を務める。■撮影/江森康之 ■取材・文/工藤晋※週刊ポスト2016年7月1日号
2016.06.24 07:00
週刊ポスト
節電気温測定 経産省29.4度、環境省28.9度、東電28.9度
節電気温測定 経産省29.4度、環境省28.9度、東電28.9度
30度を超える真夏日が続く中、実際の気温以上に暑苦しく感じるのが、政府や東電、マスコミが叫びまくる節電キャンペーンだ。しかし、国民に苦痛を強要する人たちはホントに節電しているのか。本誌の「温度計Gメン」が関係各所を抜き打ち調査した。本誌が調査したのは7月5日の午後1~3時。この時間帯の都心の気温は31~32度。●経産省 29.4度(1階受付ロビー) まずは7月1日に電力使用制限令をだした経産省。「監視役」の立場を自覚しているからか、同省の節電目標は一般より5%高い20%となっている。1階ロビーには半袖ブラウス姿の受付嬢がいるが、来省者は背広姿が目立つ。空調の吹き出し口から風を感じたが、29.4度という気温からして、「設定は28度」(同省厚生企画室)は嘘ではなさそうだ。ただし、東北地方から来たという青年会議所関係者は、「陳情する身だからネクタイにスーツです。お役人さんはクールビズでうらやましい」と愚痴をこぼした。●環境省 28.9度(1階ロビー) 28.0度(1階喫茶店) 経産省とともに節電の旗振り役となっている環境省は、全省庁の中で最も高い28%の節電目標を掲げている。1階ロビーの気温は28.9度だが、スーパークールビズに身を包んだ職員たちは実に涼しげだ。ロビー内に熱気が籠もらない工夫がなされているのか、記者の印象では経産省より涼しかった。さらに省内にホットスポットならぬ“クールスポット”があった。1階奥にある喫茶店の中は28.0度。外気との温度差を考えれば、設定温度は28度以下と思われるが、「庁舎内の店舗も28度設定です」(同省広報室)という。ホントかな?●東京電力本店 28.9度(受付横ロビー) 節電地獄の元凶となった東電では、ロビーの照明はほとんど点いていない。半袖姿の警備員はしきりにハンカチで汗を拭っていた。「記者会見場では説明する東電役員たちもダラダラと汗を垂らしている」(大手紙記者)というが、半分以上は冷や汗かも。※週刊ポスト2011年7月22・29日号
2011.07.11 16:00
週刊ポスト

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