その天草を望む施設に氏は母を預け、会いに通った。実は『母に会いに行く』という表題も母を在宅で介護していない負い目から付けたと言うが、かえってそれがよかったと今では思う。
「たぶん介護疲れで倒れてしまう方は真面目すぎるんです。プロに任せるべきは任せ、自分の時間も持てた方が、鬱にもならずに済む。
あとは母を漫画のネタにすることで客観視できたのも大きい。最初は『母ちゃんがこんなことをしたよ』と弟に報告する延長で漫画を書き、それを読んだ飲み屋のママさんとかいろんな人が、〈うちも同じ〉と共感してくれたんです。一度は漫画家の道を諦めた僕にも、同世代のあるあるネタ的な平均値を書く才能だけはあったみたいです(笑い)」
上京後は漫画雑誌の編集長を務め、40歳の時、離婚を機に帰郷。両親や息子と過ごしたその10年間が一番の蜜月だったというが、父の死後、異変は起きた。
節約を専らとした大正生まれの母は家中のコンセントを抜いて回り、それを忘れて〈テレビのつかーん〉〈冷蔵庫のしかぶったー(もらした)〉と息子に訴える。振り込め詐欺らしき電話もかかってきたが、口座番号を控えようと鉛筆を取りに行くと、ふと窓の外に鶯が。〈父ちゃんはこのホケキョで三つくらい短歌(うた)ば作いよんなったァ〉と聞き惚れ、受話器は外れっぱなしだ。