その日に向けてパイロットたちをアメリカに派遣し、〈日本航空整備〉を設立して整備体制を整えた松尾の徹底した〈現場第一主義〉が、単なる精神論ではなく、日本の航空史の歩みに端を発している点に注目したい。
運航や操縦から締め出された彼らにとって、空港管理や整備などの「安全面」にしか当初は居場所がなく、その屈辱的な状況で培われた技術と矜持が後の日航を支えた。その松尾の死後に1985年の日航123機墜落事故を始めとする悲劇が相次いだことは、単なる偶然とは思えないと中丸氏は言う。
「JALについては悪いニュースばかり耳にする中で、現場主義や安全運航を何より優先した当時の志に触れたくて、この取材を始めました。地上職一期生の方々にしても、『自分がこの会社を何とかする』という気概に溢れていて、たとえ給与の遅配が続こうとみんなが会社のためを思って働いた時代が、純粋に羨ましかったのです。
実は私が仕事を続けられないと思ったのは、ある先輩と出会ってから。彼女は疲労困憊していても乗客に向かうと完璧な笑顔をみせるプロで私にはとても真似できなかった。世界一といわれたJALのそのサービスは創業期からで、それこそが『アメリカに勝つ』ための手段でした。
それ以降1971年まで事故もなく、ナショナルフラッグとして愛されますが、その後は先輩方が築かれた安全への信頼を自ら壊してきた面があると思う。今回創業期を描いて、航空会社ってこうあるべき、と強烈に思いました!」
そんな自身のものでもある原点に立ち返ろうと中丸氏が通った資料室には、同社の歩みを有志で残そうとする一期生の姿があった。が、彼らもまた本書の刊行を待たずに亡くなった今、せめてその志を継ぎ、次代へと手渡す作業は、草創期を生きられなかった私たちにもできるはずである。
【著者プロフィール】中丸美繪(なかまる・よしえ):茨城県生まれ。慶應義塾大学文学部卒。1978年日本航空に入社。1983年に退社後、東宝戯曲科に学び、夫(神経内科医)のドイツ、ボストン赴任に同行、1991年帰国。著書に『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』(日本エッセイスト・クラブ賞)、『杉村春子 女優として女として』、『オーケストラ、それは我なり 朝比奈隆四つの試練』(織田作之助賞大賞)等。オペラ歌手・中丸三千繪氏は妹。160cm、B型。
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2015年2月27日号