お初の米作りを手伝い、外国船が運び込む疫病とも闘うことになった常太郎は、漢方が主流の当時、〈牛痘種痘法〉を始め、〈防疫〉にも着目。洋の東西より島民の命を最優先する彼の熱意はやがて周囲を動かしていく。
が、その後松江藩が召集した〈農兵〉の解除や井上甃介(しゅうすけ)らが提出した〈文武館設立嘆願書〉を巡って島内は分裂。むしろ〈正義党〉を名乗る急進派より、藩の犬呼ばわりされる穏健派の賢明さが印象的だ。〈藩と癒着した「奸商」などと言うのは勝手だが、松江藩や幕府の長崎俵物方役人に貸しを作る形で折り合いをつけなければ、この隔絶した島では凶作の起こるたびに大勢の餓死者を出す〉〈「正義」とは、何も教条的な理念をさすものではない〉
「島の者が今後どう食べていくかを考えるからこそ、彼ら庄屋は一緒に熱くなるわけにはいかないんですね。どんなに首がすげ替わろうと、〈愚昧なる民〉を求めるのが為政者の常で、隠岐騒動も結局は新政府に裏切られる形で幕を閉じる」
昨今、島に蔓延しているのは疫病に限らないと常太郎も思う。例えば〈拝金の病〉だ。〈島民の畏怖を集めていた狗賓さんは、いつの間にか島びとの心から追い出され〉〈物欲と我欲とを丸出しにすることこそが進歩であり、因習から脱却できる唯一の方法であることを島びとに信じさせた〉
「その延長上に現代があるわけで、進歩なんて響きも相当胡散臭いと思った方がいい。何かを得ることは、何かを失うことですから。
むろんこれは私の考えで、人によって全く違う価値観を共有できる相手が近くにいなければ、100年前の歴史上の人物でもいいと思う。朝起きたら巨大毒虫に化けていた『変身』の疎外された男の気持ちがわかる人はカフカと出会ってるわけだし、自分は孤独ではないと感ずるか否かに、小説や音楽や映画の価値はかかっている気が、私はします」
常太郎の22年の流人生活に何を感じるかも人それぞれだが、皆に送られ赦免船に乗りこむ彼の表情が示すように、人と人が交感し、一瞬でもわかりあえた奇蹟の輝きは、歴史ですら踏みにじることはできない。
【著者プロフィール】飯嶋和一(いいじま・かずいち):1952年山形生まれ。法政大学文学部卒。中学教師、予備校講師を経て執筆に専念。1983年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞、1988年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2000年『始祖鳥記』で中山義秀文学賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞と「キノベス」第1位に輝く。著書は他に『雷電本紀』『黄金旅風』など計7冊と寡作ながら、約4年に1作、〈出せば傑作〉の実力派として根強いファンを持つ。173cm、57kg、O型。
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2015年3月20日号