騒動は錦高倉四町に突然「市止め」が通達されたことに始まる。奉行所が再提出を求める許可証はとうに火事で燃え、町役らは冥加銀の値上げを申し出るが、賄賂と受け取られて処分は長引いてしまう。その背後では跡地の利権を狙う五条問屋町の有力者、明石屋半次郎が糸を引き、運悪く彼が志乃の夫だった。そして泣き帰った妹を迎えた矢先、若冲は知己の医師から上京中の中井を紹介されるのだ。
「組合で存続を訴えるより、市場に作物を納める農家に訴えさせた方がいい等と知恵を授けた中井は、翌年御所の大がかりな不正経理を摘発している。要は禁裏御用を務める五条側の動きを内偵するために、若冲たちに肩入れした可能性がある。
その有能さから田沼意次の下で出世しながら寛政の改革で失脚した中井もまた当時の世相を体現した1人。その中でどの流派にも属さず、日本の美術史上に屹立した徒花が、若冲でした」
若冲は融通無碍な中井や利権を争う人々の姿を『付喪神』に描く一方、絵に囚われてもがき続ける自身や弁蔵の闇を思った。やがて憎悪で結ばれたその関係が、どこか共犯にも似た関係に転じ、真贋をめぐって今も意見の分かれる『鳥獣花木図屏風』や「枡目描き」という斬新な手法の謎解きにまで展開する物語はスリリングで見事という他ない。
「彼が何を絵に託したかは本人にしかわかりませんが、人の世の無常を知る中井にはその〈不滅の輝き〉が夢、志乃には兄の人生に映るように、絵は観る人が観たいように観ればいいんです。まして真贋などどうでもよく、事実はどうあれそこにあり続ける彼の絵が、唯一の真実だと私は思います」
〈世が推移したとて、絵は決して姿を変じませぬ〉とある。現代的な市場価値や解釈を超えた地点に、人の世の哀しみや苦しみを写しとった若冲の絵は存在し、それらを「もっと緩やかに」感じるために、彼や大雅や応挙や蕪村らの横顔を生き生きと描くこの小説はある。
【著者プロフィール】澤田瞳子(さわだ・とうこ):1977年京都生まれ。同志社大学文学部文化史学専攻卒、同大学院博士課程前期修了。2010年『孤鷹の天』でデビューし、中山義秀文学賞を最年少受賞。2012年の『満つる月の如し』で本屋が選ぶ時代小説大賞と新田次郎文学賞。著書は他に『日輪の賦』『泣くな道真』等。「父は岐阜、母(作家・澤田ふじ子氏)は愛知出身の、いわば在京二代目。〈先進と保守〉が同居する京都の本音も書いていますが、他の町に住みたいとは思わないですね」。167cm、B型。
(構成/橋本紀子)
※週刊ポスト2015年5月29日号