そして、奇妙な判決が出ると、最大限に宣伝に使う。新聞等のマスコミも“画期的な判決”として大々的に報じるので、一般の人々の間にはその判決の記憶だけが残る。
欧米ではスラップ訴訟というと、大企業や政府が個人を恫喝するために行う訴訟を指すが、日本では逆で、昔から市民活動家らが政府を攻撃するための手段として裁判を利用してきた。
たとえば、家永教科書裁判は、高校の日本史教科書の執筆者である家永三郎氏が、「教科書検定は憲法違反」として国を訴えた裁判で、第一次から第三次まで32年にもわたって争われた。最高裁は原告の主張を一部認めながらも「検定は合憲」とし、国の勝訴で終わったが、長引く訴訟に文科省が疲弊し、訴訟を避けるため検定基準がどんどん緩められることとなった。
小泉首相の靖国参拝で精神的苦痛を受けたとして、首相を相手取って損害賠償請求を起こした人々もいたし、最近も安倍首相の参拝に対して同様の訴訟が起きている。2004年に出た判決では原告の請求を棄却しながら、裁判官が「傍論」で「首相の靖国神社参拝は違憲である」と述べた。
傍論というのは裁判官の個人的な意見に過ぎず、先例としての拘束力はない。しかし、マスコミはこぞって「原告の実質勝訴」と報じた。
市民活動家がなぜ裁判を利用しようとするのかといえば、彼らの主義主張に共感する人が世の中には少なく、議会に代表者を送り込めないからだ。民主的な議会制度を無視して、歪んだ主張を無理やり通すための手段が裁判なのである。
だから、こういった訴訟に裁判所が付き合う必要はなく、門前払いにすべきである。
※SAPIO2015年7月号