ジャイアント馬場とアントニオ猪木、ふたりのスーパースターの活躍を軸として日本プロレスの軌跡を振り返る、ライターの斎藤文彦氏による週刊ポストでの連載「我が青春のプロレス ~馬場と猪木の50年戦記~」。今回は、ジョン・F・ケネディが大統領に就任した昭和36年、馬場の1回目の長期アメリカ遠征の足跡を追う。
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“アメリカ武者修行の旅”というと、いわゆる前座のポジションから長く苦しい巡業生活を体験するといったイメージがあるが、馬場の場合は、あくまでも例外で、プレーイング・マネジャーの東郷は、日本人離れした体格の馬場を当初から“金のなる木”というふうにとらえていた。
馬場は、渡米からわずか1か月半後の8月18日、カリフォルニア州サンディエゴで“銀髪鬼”フレッド・ブラッシーが保持していたWWA世界ヘビー級王座に初挑戦(馬場の反則勝ち。反則勝ちでは王座は移動せず、ブラッシーが王座防衛)。
それから3週間後の9月6日には、西海岸エリアの檜舞台と謳(うた)われたロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムで、再びブラッシーの同世界王座に挑戦した(ブラッシーがフォール勝ちの王座防衛)。
キャリア1年、23歳のルーキーだった馬場は、すでにこの時点でメインイベンターの格付けを受けていた。
馬場がアメリカ入りした前日の6月30日、シカゴのコミスキーパークでは、バディ・ロジャースがパット・オコーナーを下し、NWA世界ヘビー級王座を獲得。1960年代前半のアメリカ・マットはシカゴ、ニューヨーク、そして、国境をまたぎカナダ東部までを結ぶ“三角地帯”が黄金マーケットだった。
馬場の1回目のアメリカ武者修行の主な舞台は、ニューヨーク、ワシントンDC、ボルティモア、フィラデルフィアといった東部エリアで、同年9月第2週に馬場がニューヨーク入りした時点で――東郷の用意周到な根回しにより――現地の興行用パンフレットには“ババ・ザ・ジャイアント”という怪物のような新リングネームが印刷されていた。この遠征から帰国した後、“ジャイアント馬場”というリングネームを使うようになる。