そう懐かしむのは、湯沢市議会議長の由利昌司だ。由利は小学校時代から高校まで菅と同じ学校に通った幼馴染である。
「和三郎さんは、『稲作農業だけでは、生活が豊かにならない。もっと高収入の作物に切り替えないといけない』というのが口癖でした。それがいちごだったんです。甘いだけでは駄目で、日持ちがよくないといけない、と改良を重ねてつくったのが『ワサ』というブランド品種でした。それを自ら東京や大阪の卸売市場に持ち込んで営業に行ったもんです。
ベテランの東京の市場関係者なら、たいてい今でも『ワサ』というと和三郎さんがつくったいちごだと覚えています。私が議員になって築地の卸売市場に市場調査に行ったときなどは、専務さんが応対してくれてね。そのときも和三郎さんの話題が出て、相当有名なんだな、と感心しました。まだ湯沢と合併する前の雄勝町の頃でしたけど」
息子の義偉は、そんな発想豊かな父親の背中を見て育った。苦労人というイメージがあるが、菅の実家はすこぶる裕福とはいえないまでも、貧農ではない。由利が続ける。
「まあ貧しくはなかったでしょうね。当時、冒険王という月刊の漫画雑誌があって、義偉君の家にはそれが毎月配達されていました。冒険王を買ってもらえる子供なんて、一学年に二~三人いるかどうか。当時はそんな時代でした。
義偉君の家は小学校から直線で百メートルほどしか離れていませんでしたので、漫画を読みたい友だちが家の前で並んで待っていたのを覚えています。本が届くと、義偉君は友だちに封を開けさせて、先に読ませていました。たぶん自分自身は、夜に読んでいたのでしょうね」
※SAPIO2015年8月号