そして年齢を重ねてからは、いかにしてリーダー育成に注力した。それが結実したのが日本アスペン研究所だ。
アスペン研究所は、アメリカにある組織で、合宿形式でダンテやゲーテなどの古典を学び、議論を通じてリーダーシップを養うことを目的としている。小林さんは40代でこのセミナーに参加し、「目から鱗が落ちる」体験をした。
そこで気づいたのが「日本の教育はリーダーシップの欠如を招いた。リーダーの魅力を構成する重要な要素が教養であり、それを学ぶ場が必要だ」ということだった。
小林さんは日本アスペン研究所づくりに奔走、1998年に立ち上げた。同研究所のセミナーには企業の幹部候補生が参加し、数多くの卒業生が旅立ち、企業経営の第一線で活躍している。
1999年には日本同友会代表幹事に就任する。当時の出資比率は富士フイルム50%、ゼロックス50%だった(現在は富士フイルム75%)。外資企業経営者が主要経済団体のひとつである同友会の代表幹事に就くことには異論が出そうなものだが、反対はほとんど出なかった。それだけ小林さんの生き方が、多くの経営者に評価されていたということだろう。
そして小林さんが代表幹事を務めたことで、外資アレルギーは薄まり、小林さんの後任に、外資100%である日本IBMの北城恪太郎会長の代表幹事に就任することにつながった。
同友会を辞めてからは、国際大学理事長を務めたほか、数多くの公職、や社外取締役に就いている。ソニーでは取締役会議長を務め、ハワード・ストリンガーCEOの退任を決める取締役会を仕切った。
実は冒頭に紹介した対談は、その取締役会の前日に行われた。
小林さんは毎日、コメントを求めてメディアに追いかけられていた。そんな時期だったにもかかわらず、「(この日程は)前から決まっていたことだから気にしなくていいよ」と言ってこちらを気遣い、終始にこやかに市村さんと語り合っていた。
こんな状況においても、小林さんのダンディさは貫かれていた。
●撮影/横溝敦