──成功の鍵は何ですか。運ですか?
似鳥「やっぱり、いろいろな人とのめぐり合いですね。おふくろが、僕が小学校1年生ぐらいから米の配達を手伝わせて、誰と会っても挨拶するとか、いつもニコニコしていろとか、そういう指導を受けていたのが、こまめな人との付き合いのベースになったと思います」
──お母さんといえば「週刊文春」(*注)に、壮絶な親子ゲンカなんて書かれていました。お母さんは、「私の履歴書」に書かれたような貧乏ではなかったとも言っていますが。
【*注/日経連載で幼少期の困窮ぶりを述べていた似鳥氏に対して、実母が週刊文春(2015年5月21日号)に登場。「ヤミ米の仕事を始めてからは裕福になった」「テレビもあった」と反論を展開した】
似鳥「いや、貧乏だったですよ。やっぱり。本人はそう思いたくないでしょうが、ヒヨコを買ってきて、大きくさせて、殺されるのがいやさにバサバサ飛ぶのを手足を縛って、首を切って家族で食べるわけですから」
──そういう貧乏体験が現在の自分を作ったと思いますか。
似鳥「僕はそう思いますね。だから、却って感謝しているんです。いつも死にたい、死にたいと思っていて、楽しみは寝るときだけでしたからね。起きたら地獄が始まって。だから、もういい思いは一つもなかったですね」
──いまはどうですか。
似鳥「いまはもう幸せです。やっぱり先憂後楽ですね。いまでは親に感謝していますよ。苦労は自分ではできないから」
──ただ、長年流通業を取材した経験から言いますと、どれだけ大きな企業も安泰ということはない。ダイエーだって歴史から消えたじゃないですか。
似鳥「うちも、私が生きているうちは大丈夫かもしれませんが、苦労しないのが社長になったら潰れると思っています」
──後継者は息子さんですか?
似鳥「いいえ。息子に本業を継がせず、傍系会社のニトリパブリック(広告会社)の専務にしたのは、苦労知らずに育ったからです。尊敬する渥美先生はいつも、『人生は65で大抵の人が変わる。誰でも65になると自分の死後のことを考える。それで、血のつながった者に跡を継いでほしいという気持ちが起きるんだ。生物としてね』と言ってました」