――「外道」クライマーの名付け親は、タイ探検の相棒で、山岳写真家の高柳傑さんです。相棒とはいえ、高柳さんは「一挙手一投足が不快」な存在になったんですよね……。
宮城:タイでは途中から、オレ、自然よりも、高柳に苦しめられているぞと。探検ってふつう、巨大な自然を前に、人間はちっぽけな無力な存在だと気づかされるものなのですが、やっぱり人間もこえーなと、高柳を前に思い知らされました。人間も探検です。
――沢ヤは、個性的な人が多いんですね。
宮城:彼は虚栄心が強い天然なんです。初めて会った時、アイスクライミングをしたんです。僕が先に氷を登って降りてきて、次に、高柳が僕やってみますと。そしたらあいつ、落ちたんですよ。地面すれすれまで落ちた。死んだんじゃないの? っていうくらいの大きな音がして、焦って近づいたら、口が血だらけになっている。おい、大丈夫かって。そんなときに高柳は「軽いミスしちゃいましたわ」という、ほとんど何事もなかったようなテイ……。そうとう痛いだろうし、血がダラッダラなのに。すごいやつだなぁと思いました。
いまは、沢登りもそうですけど、伝統的なクライミングをする若い人って減っています。経済的な理由もあるだろうし、若い人ほど、さきほども話したように、ライトな方向にいく。高柳みたいな泥臭いやつは今時珍しいという意味でも、探検であり、可愛い後輩です。
――宮城さんは、探検に伴う危険をどのように考えていらっしゃいますか? 本の中でも何度か「死」を意識していらっしゃいます。
宮城:誰でもできることをやっても自慢できませんからね。仲間か自分が死ぬかもしれないという覚悟は持っています。といっても、常に強く意識しているというわけではなくて、死ぬ可能性のある遊びを自分はやっている、と自覚している程度かな。僕らには技術やノウハウや経験がありますから、それらを駆使して何とかして危険を避けつつ、目標をクリアするのがこの遊びの醍醐味なんです。死と隣り合わせなんてところまで行くことはほとんどない。そのはるか手前で引くので。
――沢登りや探検は宮城さんにとって、「遊び」なんですね。
宮城:「遊び」とか「ゲーム」と言うと、印象は軽くなるんでしょうが……、表現としては正しいと思います。「生きがい」や「ライフスタイル」でもいいんですけど、カッコつけた言い方はちょっともやもやするのと(笑)、僕の場合、自然とは何らかの形で関わっていくとは思うのですが、もっと面白いものが見つかったら、それはそれでいいと考えているので。
――遊びとはいえ、人類初挑戦に意義を見出す宮城さん。人類的探検に挑まない登山家が、メディアにもてはやされる現状には疑問を呈しています。
宮城:例えば今の時代、ヒマラヤには、お金を出せばほとんど誰でも登れるんです。初登頂は60年前ですよ。もちろん個人の登山としては、そうした歴史とは関係なく、ヒマラヤに立つことに大きな価値はあるでしょう。でも、パイオニアワークとしての価値はない。それなのに、こうした探検的価値のない登山家を、登山家の代表のように、メディアは取り上げている。これは登山家本人ではなく、メディア、そして応援する側の問題です。その人が好きで応援するのはいいと思います、個人の自由だし好みだから。でも、登山の内容はどうなのか、そこも少しは勉強して知ろうよと言いたい。
メディアで人気の商業登山家より、技術的に高度で、クリエイティブなことをやっている登山家はたくさんいるんです。僕らもそう。沢ヤもいい登山してるのになって。そういう嫉妬も大きいんですね(笑)。
■宮城公博(みやぎ・きみひろ)
1983年愛知県春日井市生まれ。ライター、登山ガイド、NPO富士山測候所職員。ヒマラヤ、カラコルムでのアルパインクライミングから南国のジャングルでの沢登りにいたるまで初挑戦にこだわり続け、国内外で数々の初登攀記録をもつ。2009年、ヒマラヤ・キャジョリ峰北西壁への単独初挑戦。12年、那智の滝での逮捕によって7年間勤めた福祉施設を辞める。13年、立山称名滝冬期初登攀、台湾チャーカンシー初遡行、カラコルムK6西峰北西壁挑戦。14年、立山ハンノキ滝冬期初登攀、タイ46日間のジャングル初遡行など。