◆漁民は領土問題とは無関係
2012年9月の尖閣漁船騒動は、特定の政治目的を持つ勢力が、漁業権にこだわる漁民たちを焚き付ける形で起こした側面が大きい。
当時、親中派として知られる台湾の大富豪・蔡衍明氏が、ガソリン代として500万台湾ドル(約1700万円)を蘇澳鎮の漁民たちに寄付。結果、彼が経営するメディア・旺旺中時集団の横断幕を掲げる形で、抗議船が尖閣沖に出現することになった。この抗議運動自体も、旺旺中時をはじめとしたメディアを通じて「保釣運動」の色を強く押し出す形で報じられた。
蘇澳区漁会のある関係者は、匿名で当時の実情をこう話す。
「正直、中国共産党との関係が強いとも伝えられる蔡氏からの支援には、個人的に抵抗感も覚えた。だが、彼は数十年前から村の近所に魚の缶詰工場を建てており、現在も年越しごとに、村の媽祖廟(道教の廟)に参拝してくれている地元の名士。加えて、漁民の収入は不安定なので、資金援助の申し出が嬉しかったのも事実だった」
彼によると、蔡衍明氏のみならず中国側からも直接的な支援の打診があったが、漁民側はさすがに断ったという。中国共産党による露骨な統一戦線工作にさらされながらの抗議運動だったようだ。
もっとも、台湾の漁民による大規模な抗議運動は、このとき以降は下火になっている。対立の拡大を望まない日台両国が、領土問題をひとまず棚上げする形で、定期的に漁業問題を話し合う実務協議(日台漁業取り決め)を開催するようになったためだ。
今年度の協議は、3月4日に台北で合意。あらかじめ定められた久米島沖から台湾沖までの特定海域への両国漁船の相互乗り入れや、操業のルールが再確認された。
特例的に尖閣近海の操業は禁止されているが、台湾の漁民側もこのルールは受け入れる方針だ。往年、抗議運動の中心となった蘇澳区漁会の総幹事・林月英氏は語る。
「私たちはあくまでも、領土問題とは無関係な立場です。漁業協議の決定事項に100%満足しているわけではありませんが、決まったことは遵守したい。今後の蔡英文政権下でも、協議が維持されることを願っています」
台湾船の操業を条件付きで認めたことで、漁法が異なる沖縄県の漁民から反発の声が出るなど、現状には課題も残る。だが、日本が抱える他の領土問題と比較すれば、ずいぶんすっきりした形で落とし所が見つかったといえよう。
●やすだ・みねとし/1982年、滋賀県生まれ。立命館大学文学部(東洋史学)卒業後、広島大学大学院文学研究科修士課程修了。在学中、中国広東省の深セン大学に交換留学。主な著書に『知中論』『境界の民』など。公式ツイッターアカウントは「@YSD0118」。
※SAPIO2016年5月号