PL学園野球部出身の漫画家・なきぼくろが描く『バトルスタディーズ』に登場しそうな、きりりとした眉毛が特徴の梅田は、新チームが発足した時、満場一致で、主将に選ばれた。他のナインも、野球経験の無い監督が続く中で技術指導を行ってきた千葉智哉コーチも、「主将らしい主将」と口をそろえる。毎日の練習後には、梅田が選手を集めてミーティングを開き、その日の反省とこれからの課題を話し合ってきた。
一昨年秋の部員募集停止の発表以降、廃部問題に揺れるPL学園が試合を行う度に多くの報道陣が詰めかけ、主将の梅田は常に矢面に立たされてきた。野球に集中したい──それが本音のはずだが、梅田は気丈な発言を繰り返してきた。
「このユニフォームを着させてもらっている以上、伝統を汚すわけにはいきません。先輩方が築かれた伝統があるからこそ、こうして取材していただいたりするので、常に見られているという感覚を忘れないようにしたい。目標は……高校野球をやらせてもらっている以上、甲子園です」
いまだ公式戦の勝利がないのだから、現実的には初戦突破が目標のはず。それでもPLの62代主将を務める以上、たとえ笑われようとも、彼は「甲子園」の目標を口にしたのではないか。
もうひとりの注目は、記録員の土井塁人である。父親がつけたというその名からわかるように、土井は生まれながらにして球児になる夢を背負ってきた。1年生の時に留年しているため、年齢は梅田の一歳上になる。
名門への憧れを抱いて入学し、半年が経過した2013年の秋、39度以上の高熱が何日も続いた。当時の同級生らの心配をよそに、土井は練習に顔を出し続けた。熱は40度を超え、いよいよ病院に行くと、血液のがんの一種である「急性リンパ性白血病」と診断された。およそ半年に及んだ入院生活の中で、医師には骨髄移植を勧められたが、野球ができなくなるからと固辞。抗がん剤治療を選んだ。
幸いにして病状は回復し、2014年4月に学園生活に復帰した。学校からは「野球部を辞めて勉強に専念するなら、同級生と一緒に2年生に進学することも可能」と提案されたが、土井は「まだ野球をやりたい」と告げ、留年を決めた。
それから2年の月日が経過した。今では、60年の歴史の中でもっとも長い時間をPLのグラウンドで過ごした野球部員となった。
もちろん、日本高等学校野球連盟の規定によって公式戦に出場することはできない。それでも、「一番練習する選手が土井です」(千葉コーチ)という。毎日、全体練習のあと、室内練習場で行う仲間の自主練習に最後まで付き合った。
公式戦には出場できなくても、練習試合なら出場してもいいのではないか。彼の献身的な姿を見ていたら、そんな気持ちになる。だが、土井は自らの意思で、練習試合にも出場しなかった。