「孝行のしたい時分に親はなし」というが、男にとって生まれて最初に接する異性である母の愛のありがたみは、失ってみて初めて気づくことがほとんどだろう。「瞼の母」の思い出を、元プロボクサーの輪島功一氏(73)が語る。
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親父はいい男で、“上原謙か輪島芳太郎”といわれていたそうだ。そんな親父に惚れた弱みがあったのか、おふくろは文句ひとついわずに黙々と働いていたよ。
俺が生まれたのは樺太(サハリン)の豊原。当時、親父は材木関係の仕事をしていて、比較的裕福な生活だった。ところが、2歳の時に日本が敗戦。命からがら日本に戻った時には無一文になっていた。
北海道の士別町に一家で移り住み、開拓地に入った。満足に食べられず、家は床板にムシロを敷いただけのバラック。冬はマイナス30度となり、朝起きると布団の上に雪が積もっていた。
家の手伝いで一番きつかったのは“抜根”。大きな木の根っこを抜く作業のことだが、子供にはかなりの重労働。そんな生活から逃げ出したくて、小学6年の時に大成町の叔父のところへ養子に出た。おふくろは「功一が遠くに行ってしまった」と泣いていたそうだ。
養子先では夕方から明け方までイカ漁船に乗った。授業中に寝ているのを先生に見つかっては棒で殴られた。それに叔父が厳しくてあまり食べさせてもらえなかった。それでも頑張れたのは、「功一、何があっても他人に負けるんじゃないよ」というおふくろの口癖が頭の片隅にあったからだ。
高校1年の時、叔父に黙って士別町へ逃げ帰った。士別駅に着いたのは夜だったが、おふくろが提灯を持って迎えに来てくれた。その時は言葉らしい言葉はなかったが、息子が帰ってきてうれしかったんだと思う。