洋楽のヒット曲を知る術はラジオ番組しかなかったような時代だったのに、洋楽の最新情報やアーティスト情報を知ることができたり、最新曲のレコードが流され、その曲に合わせたステップをレクチャーしてくれる…。
私は当時、小学4年生か5年生で、ラジオの深夜放送を聞きはじめ、ハガキ投稿していたときだった。
早熟? そのとおりだ。私は長女なのだが、当時、我が家に8歳上の親戚のお姉さんが下宿をしていたのだ。夜、我が家の電話の受話器を握りしめ、ラジオに電話リクエストをするため、暗い部屋で何度もリダイヤルしたり、ビートルズ来日の際、追っかけをしていた彼女の影響を私はストレートに受けていた。ちなみに、彼女は『ミュージックライフ』を毎号、読んでいて、アーティストに近い存在として見えていた同誌の女性編集長に対し、「ずるい」とジェラシーの気持ちを抱いていた(笑い)。
『ビートポップス』のMC席には巨泉さんの下手(向かって左隣)にその『ミュージックライフ』編集長の星加ルミ子さんが座り、上手に音楽評論家の木崎義二さんが座っていた。いま思うと、そこはMC席というよりDJボックスといったほうが近かった。
その後にスタートする他の番組でもそうであったように、巨泉さんは初めてテレビに出演するような文化人をいじったり、スターに育て上げる天才だった。星加さんも木崎さんも『ビートポップス』で初めて名前と御顔を知った方たちだが、もうおひとり、フロアで踊っていたのは藤村俊二さんだった。若い方たちは「『ぶらり途中下車の旅』(日本テレビ系)でナレーターをしていた人?」という認識だろうが、藤村俊二さんは「振付師」。60年代、70年代は、男性のスター振付師が数多く存在していたが、テレビに顔出しされたのは藤村さんが最初ではなかったか。
その当時、私は、土曜日、開放されていた校庭で遊ぶような“お子ちゃま”だったが「『ビートポップス』が始まる頃には家に帰ろう」と、友人たちと約束していた。間に合わないときは、学校のいちばん近所に住んでいた友人の家へみんなで押し掛け、『ビートポップス』を鑑賞。懸命にステップを覚えたものだ。
繰り返しになるが、洋楽情報はラジオでも知ることができた。しかもラジオのほうが確実に早かったのだが、時折アーティストのミュージッククリップが流れたり、洋画スターの情報を知れたりするのは『ビートポップス』。小学生の私と、年の離れた姉や兄のいる、おマセな同級生は、『ビートポップス』の虜だった。
いまでも覚えているのだが、小学5年か6年の「お楽しみ会」で私たちのグループが踊ったのは、ミリアム・マケバの『パタパタ』だった。それが元祖、ミリアム・マケバのものだったのか、藤村俊二が教えてくれた振りだったのかは定かではない。が、私はその振りをいまでも覚えている…。
ゴルフや釣り、スキー、海外旅行などを世に広めた『11PM』と、洋楽をテレビで初めてあれだけ取り上げた『ビートポップス』。大橋巨泉さんは、本当にカッコイイ大先輩だった。改めまして、ご冥福をお祈り申し上げます。合掌