木久扇:実は、原案は春風亭小朝くんなんです。小朝くんにせがれ(2代目・林家木久蔵)を預けた関係で、随分、稽古をしてもらいました。せがれは一時期、ぼくより小朝くんに会っていて、ごちそうになったり、旅のお土産をもらったりしていました。
せがれが「師匠、ぼく売れたいんですけど、どうすればいいでしょうか」と相談したら、小朝くんが「面白い売り方をしようじゃないの」と考えてくれて、「お父さんが改名して、君が木久蔵を継ぐと注目されと思うけどどう?」って。ぼくがそれに乗ったんです。2人の合作なんです。
そうしたら大きなニュースになって、新幹線の電光掲示板のニュースにものったんですよ。襲名披露では大きい会場ばかり、全国88か所まわりました。
――木久扇さんはがんでの闘病を2度も経験しています。喉頭がんでの1か月半の療養中、『笑点』のことも気になったのでは?
木久扇:『笑点』を9週間も休みましたから、代わりに桂文枝さんや小朝くんがくるんじゃないかと、気が気じゃありませんでした。でも『笑点』のスタッフが、席を空けて待っていてくれたんですね。メンバーも支えてくれて、番組の中でも「帰って来てください」と言ってくれて。家で番組を見ていて、とても嬉しかった。
意外だったのは、300通くらい手紙や折鶴が届いたんですけど、ほとんどお子さんからだったんです。こういう人たちが見てくれているんだって、ビックリしましたし、励まされました。すべてファイルして保管してあります。ぼくは、お子さんにもわかりやすい回答しているからですかね(笑い)。
――喉頭がんでは、しばらく声が出なかったんですか?