【ジイさんは右翼、オヤジは左翼】
山崎は1936(昭和11)年、現在の中国・大連市に生まれた。父・進が満鉄(南満州鉄道)調査部員だったからである。その後、山崎は父に連れられて上海に移り、終戦前には日本へ戻った。その父・進は、山崎が小学1年の時、こう断言していたという。
「この戦争は負ける。大変な時代になるから意思を強く持て」
山崎が振り返る。
「僕のジイさん(祖父・和三郎)は頭山満の玄洋社で武道場の最高師範だった。ところがオヤジ(進)は東大卒のマルキスト。ジイさんは右翼、オヤジは左翼だった。だから僕の中にはいろんなものがチャンポンで入っておる」
マルキストの父が喝破した通り、日本は無残な敗戦を迎えた。山崎は小学3年。戦時中は焼夷弾が家の天井を突き抜けて落ちてきたこともあった。福岡も空襲にさらされた。
「焼夷弾は不発だったけど、爆発しとったら僕は死んどった。空襲の時は山の上の防空壕に逃げてね。いまは繁華街になっている中洲も丸焼けで、焼死体がゴロゴロと転がっていた。生々しく覚えてます」
──戦争体験はやはり強烈だと。
「あんなバカなことをするもんじゃない。沖縄にいたわけじゃないし、広島にいたわけじゃないけど、戦争の悲惨さはわかる。たった1回きりの人の人生を奪いあうようなことは意味がない。しかも国家暴力で奪うなんて絶対によくない。それが骨身に沁みているんです。憲法9条の話は別ですが」
──というと?
「僕は、専守防衛の自衛隊をきちんと憲法上に認知することが大事だという考え方できましたから」
──しかし、安倍政権は戦争をしたがってるように見えます。
「そこまでは愚かじゃないと思うけれど、戦争体験は決定的だよ。僕の魂には『不戦』がDNAみたいに浸透しとる。戦争体験者の中には、絶対にあんなことをしちゃいかんというのと、もう一遍やろうというヤツもいるがね」
──例えば誰ですか。
「絶対にやっちゃいかんという代表は後藤田(正晴)さん。もう一遍やりたいという人は……まあ念頭には浮かぶけれど、言わんでおきましょう。まだ生きとるから(笑)」
※SAPIO2016年11月号