私は読書をしない子供だったが、それは読書感想文が苦痛だったことと無縁ではない。この本をこう読んでこう書きゃ点が取れるんだろ、と意識しながらする読書がおもしろいわけない。そういうとき手にしているものは本ではなく、資料と呼ぶべきだ。ネタを探すために資料にすぎず、本を読み感想を綴る行為はネタの整理でしかないのである。
ネタ探しやネタ整理自体が悪いのではなく、そこに感動という、きっと人間にとって大事な部分をでっちあげで乗っけなければならない点がおかしい。「たかが子供」なので、その作品の特徴を作家の作品群や類書の中で客観的に位置づける、といった「書評」を求められているわけではない。その逆の主観、あくまで読んで沸きあがってきた思いを書くのが感想文なのだ。沸かなくても、沸いたふりをするのだ。
本を読んで、気持ちが沸きあがってくることは、もちろんある。選んだ本とその時の自分のコンディションがぴったり合えば、時にその後の人生を左右するくらいの大きな感動だって、書物は我々に与えてくれるのである。
でも、それは強制下ではめったに起きない。わりと、たまたま手にしたところ、止められなくなって夢中で朝まで読んじゃった、という読書で起きがちなのだ。そして、そういう体験をモノにした人たちは、自分の心に湧いてきたものを、誰かに伝えたくて仕方がなくなる。
だから、みんなネット上で「レビュー」を書く。「レビュー」っていうのは、本来、上記した「書評」に近いもので、そこまで高尚でなくても、客観的に内容を紹介する文、くらいの枠があるはずだが、実際はなんでもありだ。
アマゾンの数々のレビューを読めばわかる。あらすじだけのものから、「私の目を開かせてくれたこの出会いに乾杯!」みたいな一行ポエム、重箱の端つつき系、難癖系、小論文のつもりですか系までいろいろである。ごく稀には書評家も一目置くような名レビューだったり、文芸評論家が自ら書いていたりするものまである。
なぜ一円にもならないのに、みんないっぱいレビューを書くのか? そんなに承認欲求に飢えているのは社会病理じゃないか……と思うこともあったのだが、それは私が間違っていた。