梅屋の曾孫で、『革命をプロデュースした日本人 評伝梅屋庄吉』の著者・小坂文乃さんは語る。
「梅屋は義憤を感じ、アジアの文化を日本人も中国人も一緒になって守らなければならない、と思ったのでしょう。その意味で同じ10代の頃に外から祖国を見つめてきた孫文と共鳴し、思いを一つにしたのは自然なことでした」
梅屋は写真館から発展した映画ビジネスで大成功を収めた。特にシンガポールでのビジネスは大当たりし、帰国時に50万円(現在の価値で約14億円)もの大金を持ち帰ったという。
当時の映画は最先端のメディアであり、ビジネスであった。帰国後の梅屋が設立したM・パテー商会(日活の前身)は、南極探検の記録映画の制作、伊藤博文の葬儀を日比谷公園に潜入取材して伝えるなど、先進的な試みを打ち出していく。
そうして稼いだ資金を梅屋は約束通り、孫文に惜しみなく送っていくのである。その送金方法はときにスパイ映画さながらで、映画のフィルム缶に札束を詰めて革命軍に届けたこともあった。辛亥革命後の1913年、孫文は日本に亡命する。その際、彼を匿ったのも梅屋で、翌々年の宋慶齢との結婚披露宴も自宅で執り行なった。
孫文の死後、銅像を南京に寄贈した梅屋は、その後も悪化を続ける日中関係の改善に尽力した。だが、日中戦争が始まる前の1934年に倒れ、65歳で生涯を閉じた。そのとき、事業で稼ぎ出した金は使い果たされていたという。
梅屋が生涯を通して好んで使い、信条とした言葉がある。「貴富在心」―─富や貴さは心の中にこそあるという意味だ。
※週刊ポスト2017年1月13・20日号