「今回はようやく医療ものを離れられたので、本当はもっと楽しげな話を書くつもりだったんですけどね。僕ら医者は人の嫌な部分を日々見てしまうというか、死を前にしても立派でいられる人なんてほんの一握り。大多数の人は自分のことしか考えずに、医療を叩く。どうしたら人はもっと優しくなれるんだろうと、常々考えずにはいられなくて」
〈世界中の骨太な傑作〉が並ぶ夏木書店には、高校の先輩〈秋葉〉ら、真の本好きが集い、林太郎も祖父を見てきただけあって、なかなかに堂々とした2代目だ。が、容姿も学力も抜群のバスケ部のスター・秋葉と林太郎では住む世界が違い、祖父の死以来、殻にこもる彼は、様子を見に来てくれる学級委員長〈柚木沙夜〉にすら、心を開けずにいた。
そんな時、現われたのが自称〈トラネコのトラ〉だ。この上から目線の毒舌猫は〈本を助け出すためにお前の力を借りたい〉と唐突に切り出し、書棚の奥に広がる異世界へと彼を誘った。
まず第一の迷宮「閉じ込める者」での敵は、読んだ本の数だけを競う自称・知識人。続く第二の迷宮「切りきざむ者」では、『走れメロス』=〈メロスは激怒した〉等々、〈あらすじ〉を読めば十分だと豪語する男が。第三の迷宮「売りさばく者」では、目先の利益だけを追求する出版社社長が登場。実はどの敵も自身に近いという。
「僕も大学時代は本を乱読していて、漱石とその弟子筋とか、18世紀のフランスやロシア文学を網羅するとか、自分なりの体系が構築できたのもこの時期でした。
そんな自分の中の本棚が後々支えにはなるんですが、当時は誰も読んでない本を読むのがカッコいいとか、本から得る知識に逃げてもいた。つまり第一の迷宮の男と大して変わらないし、あらすじ偏重主義の話も全部自分が通ってきた道。彼らの語る正論を林太郎がどう突破するかは、僕自身の問題でもあったんです」