1月10日、弘道会幹部が会津小鉄会の本部事務所に乗り込んできたことから事態は動いた。弘道会幹部は馬場六代目との密室会談の後、「馬場六代目は引退、原田若頭が七代目に決まりました。反対の方は手を上げて下さい」と高らかに宣言したと聞く。
「後見云々を認めるにしても、跡目というのは当代が決めるのか、後見が決めるのか。『次はこいつだ』っていう権利がなぜよその人間にありますの?」
挙手した幹部たちはそう返答して立ち去った。その後、前述の通り原田七代目決定のFAXが友誼団体に送られ、翌日、神戸山口組幹部を連れて戻った馬場六代目派が、弘道会と反馬場派を追い出し、その乱闘騒ぎが六代目山口組対神戸山口組の代理戦争としてテレビで全国中継されたのだ。
今回、七代目の襲名を公表した原田会長側にも、言い分はあるだろう。以前は原田会長が馬場六代目の跡目を継ぐことは既定路線で、金子会長を担いだ幹部も当時は「原田七代目」を推していた。原田会長は、馬場六代目が神戸側に転向することに対し、「絶縁者と付き合ってはいけない」と説得したという話もある。
舌戦による大義論争は無意味である。こうなった以上、2つの会津小鉄会は、メンツに懸けてパチモンを消さなければならない。六代目側の報復は、原田派を勝たせるよりむしろ、京都の人間を引き返せない土壇場に追い込み、互いに殺し合わせることによって完成する。そうなれば警察は黙っていない。京都府警は記者クラブメディアのデスクたちに、「この機に両派関係なく会津小鉄会を壊滅する」と息巻いている。
『仁義なき戦い』は、戦後の広島暴力団社会で勃発した地元勢力による凄惨な抗争事件を描いた。が、長期にわたって血が流れたのは、山口組と本多会(解散)による代理戦争となったからだった。物語はその渦中にあった元ヤクザである美能幸三の「つまらん連中が上に立ったから、下の者が苦労し、流血を重ねたのである」という手記の末尾を引用して終わる。
●レポート/鈴木智彦(フリーライター)
※週刊ポスト2017年2月24日号