光秀は和歌、連歌を嗜み、京で連歌師・里村紹巴や、当世一流の文化人・細川幽斎らと対等に付き合うほどの教養人だった。実際に、光秀の詠んだ連歌がたくさん残っている。67歳と高齢ならば、並の武将より一段高い教養を身に付けていたとしても不思議ではない。
また、ポルトガルの宣教師フロイスの『日本史』によると、信長は中国地方の毛利氏を
討伐して天下を統一した後は、スペインと組んで中国大陸へと進出する計画があったという。その総大将として派遣されるなら、家臣としての格や担当方面からして秀吉か光秀しかいない。すでに高齢の光秀が、生きて帰るとも知れない海外派兵を忌避する気持ちは強かったろう。
嫡男・光慶は元服前の13歳と若輩で、自分が死んだ後のことを心配した形跡も見える。領地が没収されて明智家が衰退すると考え、絶望したかもしれない。
さらに信長の政策転換により、友好関係から対立関係となった四国の長宗我部氏との問題では、取次役であった光秀が板挟みとなるなど、67歳という高齢の身には堪える出来事が続いていた。信長に折檻されカツラを打ち落とされたその時、光秀は「本能寺」を決意したのかもしれない。
【PROFILE】桐野作人/1954年鹿児島県生まれ。歴史作家、武蔵野大学政治経済研究所客員研究員。戦国や幕末維新期を中心に執筆活動を行う。著書に『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)などがある。
※SAPIO2017年4月号