「アンネ役はオーディションで選ばれた人がいましたが、研究所の人たちも勉強のため稽古を見学していました。ところが幕が開いて少ししたらアンネ役の彼女が風邪で声が出なくなった。
その朝、うちに電話がかかってきて呼ばれまして。稽古場には出演している先輩たちがみんないました。それでお稽古が始まっちゃったんです。私はなぜか、セリフを全て覚えていました。先輩たちがいろいろと動きを教えてくださり、夕方には『これで大丈夫だ』ということで、私で行くことになっちゃったの。
緊張はなくて、もう必死でした。これも勉強だ、しっかりやらなきゃみたいな感じで舞台に立っていました」
それから六十年以上、吉行は女優を続けることになる。
「『アンネ』は責任感だけでやっていました。やる以上は一生懸命やろうって。でも、自分の中では場違いな感じがありました。私がやっていると観客が嫌がっているのでは、と思いながらでしたので、楽しいと感じたことは一度もなかったです。
この公演が終わったら、役者はもうやらなくていいと思っていました。ただ、旅公演の時に狭い部屋で先輩たちと一緒に寝起きしていたんですが、ある夜寝ていたらある先輩が『彼女は体が弱いし、引っ込み思案だから続かないでしょう』と言っていたのが聞こえたんですよ。そしたら、物凄く悔しくなっちゃって。『そんなこと言うなら、よしやってやるぞ!』と。それで、なんとなく女優になっちゃった。
ですから、上手くなろうとか、人気が出たらいいとか思いませんでした。やり始めたからには一生懸命やる。それだけでした」
●かすが・たいち/1977年、東京都生まれ。主な著書に『天才 勝新太郎』『鬼才 五社英雄の生涯』(ともに文藝春秋)、『なぜ時代劇は滅びるのか』(新潮社)など。本連載をまとめた『役者は一日にしてならず』(小学館)が発売中。
◆撮影/藤岡雅樹
※週刊ポスト2017年5月5・12日号