◆「肉は腐る手前が旨い」
いったい、永井荷風にとって生涯最高の女性は誰だったのか。一般的にはもっとも長い時間を共にした関根歌だといわれているが、はたして本当か。荷風なき後の銀座に、伝説のキャバレー・ハリウッドを開いた福富太郎は、「少々悪趣味」こそが荷風のタイプだったのではないかと書いている。
〈食べ物に例えるなら腐る一歩手前の肉を焼いて食べるのが好きなのだ。当時としては日本人離れしている女性に興味があったのだろう。良家の子女はお呼びでない。リンゴや柿などよりドリアンの方が好きなのだ〉
〈そこで私の推理だが、ひかげの花ではお千代となっている黒沢きみという女性が浮かんだ。この女性は断腸亭日乗に×印が付いており、実際に興信所を使って調べたこともあったらしい。九州の炭坑主の彼女で、荷風が待合いに遊びにきている時、そこの女将の紹介で知り合った。荷風の方が夢中になって、最後には逃げられた〉(福富太郎『永井荷風への思い』~『en-taxi』21号より)
荷風が、探偵(!)を使ってまで女性を調べるようになったきっかけは、小説『つゆのあとさき』に登場する君江のモデルになったお久だ。馴染みのカフェ・タイガーの給仕をしていたお久は「私は娼婦ではない」という素振りで荷風に近づき、最後にはさんざ脅した。以降、荷風は用心深くなったそうだ。お久と関係していた最中、荷風は1年で134回もカフェ・タイガーに出掛けており(*注1)、お久への入れ込みぶりが窺える。
【*注1/石内徹『「つゆのあとさき」の前後─『断腸亭日乗』を視点として─』~『荷風文学考』(クレス出版)を参照。当時のカフェは、現在の喫茶店とはちがい、文化人や上流階級に属する人々にとって「花街の待合よりは、安くて使い勝手のいい場所」だった】